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もう一つの記憶⑥

『宗一郎、また泣いているのかよ?』 『誠さん、別に泣いてなんか』 『嘘つけ。ほら、こっちに来い』  渉は夢を見た。仁に会えずに寂しい思いをしている時に、誠がまた会いに来てくれたのだ。 『いつもここで泣いているんだな? そんなに蓮の花が好きかい?』 『いや、違います。仁さんが蓮の花が好きだって言ってたから……』 『そうか。お前は何から何まで仁なんだな』  宗一郎は、いつも庭にある大きな池の傍から仁のいる離れを見つめていた。きちんと手入れの行き届いた池には、たくさんの蓮の花が咲いている。初夏になると丸くて可愛らしい蕾を付け、薄桃色の美しい大輪の花を咲かせる。  夕暮れ時の涼しい風が吹く度に綺麗な音を奏でる風鈴の音が、ひどく寂しく感じられた。 仁はこんなに近くにいるのに、傍に行ってその温もりを感じることさえできない。まるで、高い壁が二人の間に立ち塞がっているようだった。 『来いよ、宗一郎』 『誠さん……』  いつもなら「やめてください」と言いながら、誠が差し伸べてくれた手を払い除けたことだろう。でも今日の宗一郎にはそんな気力はない。ほんの少しだけ……そう遠慮がちに、誠の肩に体を預けた。  そんな宗一郎は、落ち込んでいる渉にそっくりだ。宗一郎の傍に駆け寄って肩を叩いてやりたい。「元気出せよ」って声をかけてやりたい。そう思うのに、夢の中の渉はいつも宗一郎を見つめることしかできなかった。 『誠さん……やっぱり、俺……』 『大丈夫だよ。今日くらいは俺に甘えてもいいだろう?』 『すみません』 『ふふっ。なんで謝るんだよ。俺が好きでやってんだ』  誠が笑いながら宗一郎を抱き締めてくれる。その腕は仁よりも逞しいのに、とても優しい。宗一郎を宥めるかのようにそっと背中を擦ってくれた。  ――あぁ、落ち着く。  初めて誠に抱き締められた宗一郎は、その温かな腕の中でそっと呼吸を整える。今の自分は仁を裏切ってしまっているのではないだろうか? そう思うと、背徳感で胸が圧し潰されそうになった。  それでも、宗一郎には誠の腕を振り払うことなんて、できそうもなかった。 ◇◆◇◆  それからも渉は正悟を避けて過ごした。正悟がいない学校生活なんて、元々友達のいない渉にとっては退屈なものでしかない。  移動教室も一人きりだから、新しい選択教科が始まれば必然的に移動する教室も変わってしまう。そのせいで、渉は広い校舎をウロウロしなければならない。この前は散々迷った挙句、遅刻しそうになったところを、担任の教師が見つけてくれて移動先の教室まで送り届けてくれた。これでは迷子になった子供みたいだ……と感じたけれど、実際そうなのだから仕方がない。  弁当だって一人で食べなければならない。一人で食べると言っても、重箱にぎっしり詰められた料理を一人で食べきれるはずもない。 『渉、美味しいね』  そう隣で笑う正悟は、もういないのだ。  目頭が熱くなって、涙を堪えて空を見上げる。  今年はどうやら空梅雨のようで、雨がなかなか降らない。そのせいか蝉が待ち構えていたかのように、いつもより早く鳴き始めて夏の到来を感じさせた。青い空には雲一つなくて、すっきりとした色のそれが、余計に渉の寂しさを助長させた。  いつも弁当を分けてもらって申し訳ないと正悟がくれた飴が、もうすぐなくなってしまいそうだ。大事に大事に食べていたはずなのに……。  最近は弁当をほとんど手付かずで持って帰るし、そもそも食欲がない。それを心配した柴崎が、「坊ちゃん、もう学校に行くのはおやめください! 桐谷家には優秀な家庭教師が揃っていますから」と涙ぐんでいた。  せっかく作ってもらった弁当を残すことも申し訳ないと思うし、柴崎に心配をかけるのも心苦しい。  結局、世間知らずの「お坊ちゃん」が普通の高校生活を過ごすこと自体に無理があったのかもしれない。 「あ、午後の授業が始まる……」  渉はほとんど手付かずの弁当を風呂敷に包んで、教室へと向かった。   急に暑くなったことに加えて食欲もないからだろうか。立ち上がるだけでフラフラと眩暈がした。  

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