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歪んだ真実③
「ん? 誰の声だ」
渉の寝室の隣の部屋から、こそこそと話す声が聞こえてくる。
いつの間にか眠ってしまったのだろう。部屋の中は薄暗く、時計の針は七時を指していた。
『夜になったら会いに行くから待っていろ』
午後の三時くらいに、慧からそういった内容の電話がかかってきていた。たまにはきちんと出迎えよう、と思っていたのに、結局渉にはそんな気の利いたことなんてできなかった。
重たい体を起こし、扉へと向かう。扉の向こうからは小声で話す慧の声が聞こえてきた。
「慧さん、やっぱり来てたんだ」
そっと扉を開けると二人の男の視線が、一斉に渉へと向けられる。一人は慧で、もう一人は渉のよく見知った人物だった。
「なんで、香夏子さんのお父様がここに?」
「あぁ、渉君。久しぶりだね」
渉に向かい笑顔を向けるのは、元婚約者である香夏子の父親だった。香夏子の父親は、渉の父親が経営している企業の産業医をしている。もしかして、慧はどこか体調が悪いのだろうか。
渉が不安そうに慧を見つめると、「大丈夫だよ」と白い小さな封筒を背広の内ポケットにしまいながら微笑んだ。
――なんだ、今の白い袋は……。
渉はそれが気になったけれど、自分にはきっと関係のないことだ……と思い口を噤んだ。
そんな渉の肩を、香夏子の父親がまるで労わるように叩く。それが気持ち悪くて、渉の背中を虫唾が走った。
「渉君、大変だったね。まさか君がオメガになってしまうなんて……。香夏子もガッカリしていたよ。君のことをとても気に入っていたからね」
「すみません。俺のせいでご迷惑をおかけしました」
渉は香夏子の父親から少し離れてから、深々と頭を下げる。
こんな風に薄気味悪い笑みを浮かべる男が、義理の父親になっていたかもしれないなんて、考えただけで吐き気がした。
「いやぁ、本当に残念だよ」
顔を引き攣らせる渉に気付くこともなく、言葉を続けるこの男に「黙れ、狸ジジィ。誰がお前の娘と結婚なんかするかよ」と悪態をつこうとした時。渉と香夏子の父親との間に、すっと慧が割って入ってくる。
それはまるで、香夏子の父親から渉を庇ってくれているようだった。
「申し訳ない、『僕の婚約者』はまだ本調子ではないのです。どうかこの辺でお開きにしていただけませんか?」
「おぉ、そうでしたな」
慧が『僕の婚約者』という部分を強調したような気がして、渉の頬に熱が籠る。普段渉の前では使わないような丁寧な言葉遣いに、できる男の魅力を感じて、不覚にもときめきを覚えてしまう。
更に慧から『婚約者』などと紹介されたことのなかった渉は、なんだか恥ずかしくなってしまった。
慧の言葉に香夏子の父親が一瞬目を見開いてから、また気持ちの悪い笑みを浮かべる。
「医者だというのに気が回らなくて申し訳ない。では私はこれで失礼します。渉君、櫻井君に幸せにしてもらってくださいね」
「……はい」
香夏子の父親が去った室内は怖いくらいに静まり返り、渉はようやく肩の力を抜くことができた。
「なぁ、慧さん。香夏子の父親と何をしていたの?」
「いや、君が気にすることではないよ。最近ちょっと胃の調子が悪くてね。診察をしてもらっていたんだ」
慧が罰の悪そうな顔をしながら、胃の辺りを擦っている。仕事で疲れているのだろうか……と、渉は心配になってしまった。
「そうなんだ。大丈夫? もしかしたら仕事が忙しいのか?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
慧はそう笑いながら、渉の額にそっとキスを落とす。
「夫になる男の健康を気にしてくれるなんて……。渉はいい奥さんになるな」
「うるさい、黙れ」
「あはは! 相駆らず口が悪いなぁ」
渉を抱き寄せながら、慧が声を出して笑っている。慧は渉によく「口が悪い」と言うが、それを咎めることはしない。どんな渉も受け入れてくれる……そんなおおらかさが慧にはあった。
「香夏子さんと結婚しなくてよかったって思えるくらい、俺が渉を幸せにするからな」
「…………」
「幸せにする」
慧はまるで誓いをたてるかのように囁きながら、渉を強く抱き締めてくれたのだった。
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