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第八章 過去の記憶①
『宗一郎』
遠くから懐かしい声が聞こえてくる。何年会うことがなくても、忘れることなどない……愛しい声。
どんなに、その声の主に会いたいと思ったことか。どんなに、会えずに寂しい日々を過ごしてきたことか……。あの長い日々を思い出すだけで、渉の胸は張り裂けんばかりに痛む。
しかし、渉がどんなに願っても、その夢は叶うことなどなかった。
「会いたい」
渉はひたすらに走る。途中何度も転びそうになったし、息が上がって呼吸も苦しくなってきてしまった。それでも、渉は走り続けた。
「会いたい、会いたい……!」
目からは熱い涙が次から次へと溢れ出す。渉はそれを手の甲で拭った。
「はぁはぁはぁ……会いたい……会いたいよぉ!」
頭の中で渉に向かって優しく微笑む男。渉はずっとその人に会いたかった。
そして、今その人が自分の名を呼ぶ声がする。こうやって無我夢中で走っていると、その声が少しずつ近付いてくる気がした。
もう一度会って抱き締めてほしい。そして口付けてほしい。
その一心で渉は走り続ける。
『宗一郎、おいで』
息は上がり、肺が破れそうなほどに痛い。疲れ果てた足は今にも力が抜けて折れてしまいそうだ。
それでも、あの人の気配をすぐ近くに感じることができる。
「会いたい」
渉はもう一度涙を拭い、走り続けた。
夢中で走り続けると、蓮の花のほんのりと甘い香りが鼻腔を擽る。渉はその香りの中に、あの人の面影を感じた。
今の渉には帰る場所も、行きたい場所もない。
渉が辿り着いたのは大きな池だった。その水面にはたくさんの蓮の花が咲いていて、夜露に濡れた葉が月の明かりを受けて輝いている。
電車にすら乗れなかった渉が、一人で電車を乗り継ぎこうしてここに辿り着けたのは、正悟のおかげだ。
ここは明治時代に宗一郎と仁が身を投げた池。二人が住んでいた屋敷のすぐ傍にあるこの池は、当時のままでひどく懐かしい。
あの日も今日と同じで暑い日だった。池には今も変わらず蓮の花が咲き乱れている。薄ピンク色の可愛らしい花の上には、本当にお釈迦様が座っているのではないかと思える程で。渉は大好きな蓮の花に、思わず目を細めた。
ふと、二人で心中した日のことが思い出される。
躊躇いを隠し切れない宗一郎の手を引き、仁はどんどんと深みへと歩いて行ってしまう。これで自分は死んでしまうんだ……。そう思えば怖くて仕方がないのに、仁の手を振り解くなんてできるはずもない。ギュッと大きくて温かな手を握り返して、必死に仁の後を追いかけた。
『月が綺麗だね』
突然立ち止まり、そう笑う仁の顔を忘れることなんてできない。
何度も思い出しては、会いたいと願った。
正悟と再会することで願いは叶ったはずなのに。幸せになれると思ったのに……。
現実はそんなに甘くなかったのかもしれない。
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