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過去の記憶②
「もう一度この池に身を投げれば、生まれ変われるのかな……」
渉は吸い込まれるように池に一歩足を踏み入れる。あの時と同じでもう夏だというのに、池の水は皮膚を切り裂くように冷たい。
「もう一度生まれ変わって、仁さんに会いたい。会いたいよ……」
ジワリと滲む涙を手の甲で拭う。
あの時はとても怖かったけど、渉は一人ではなかった。仁がいてくれたから。しかし、そんな仁も今はいない。それでも、どうしても仁に会いたかった。
一歩一歩池の中に入っていく。服に水が沁み込んでどんどん重くなって。それはまるで池に引きずり込まれていくような感覚で、強い恐怖に襲われた。
その時、水面を風が吹き抜ける。水面が大きく揺れて、蛍が一斉に空へと飛び立って行った。
渉の髪がサラサラと揺れる。目を細めて空を見上げた。
「宗一郎、宗一郎」
「仁さん……?」
これは幻だろうか? 渉の目の前には、優しい笑みを浮かべた仁が立っていた。
「仁さん……仁さん。会いたかった!」
夢中で仁にしがみつけば、ギュッと抱き締め返してくれる。
「僕も会いたかった」
そう耳もとで聞こえる仁の声も震えていた。そっと自分の首筋を撫でる仁の指がくすぐったくて、思わず肩をすくめた。
「あのね、宗一郎。君に、きちんと話しておかなければならないことがあるんだ」
「……話しておかなければならないこと?」
「うん」
仁の神妙な面持ちに、渉は眉を顰めながらその言葉を待った。
「君の項を噛んだのは僕なんだ。すまない……どうしても、君が他の誰かに奪われるのが許せなかった。例え未来の自分だとしても……渡したくなかったんだ」
「じゃあ、この噛み跡は正悟でも慧さんでもなく、仁さんだったんですか?」
「すまない……。だって、今でも君をこんなにも想っているのだから……」
仁が優しく渉を抱き締めてくれる。
――あぁ、これが本物の仁さんだ。これが、これが仁さんなんだ……。
堪えられずに溢れ出した涙を見られたくなくて、仁の胸に顔を埋める。トクントクンと聞こえる規則正しい心音が心地いい。生まれ変わる前は、いつもこうやって仁に抱き締めてもらっていた。
全然変わっていない。温かくてとてもいい匂いがする。
「でも、仁さんごめんなさい。俺は宗一郎じゃなくて渉です。だから、貴方が本当に愛した人じゃない」
「どうして? どうしてそんなことを言うんだい? せっかくまたこうして会えたのに……」
渉はそっと今まで歩いてきた岸に視線を移す。耳を澄ませば、ひぐらしの鳴き声と共に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「渉、どこだ!? どこにいるんだ!?」
その声に胸が熱くなる。
「だって、貴方に宗一郎がいるように、俺には正悟がいる。俺達は生まれ変わってまた出会えたんです。大丈夫、今度は絶対に離れないから」
少しだけ体を離して仁を見つめる。
「心配しないで。あの時の約束は果たされました」
「宗一郎……」
「だから俺、戻ります。正悟が呼んでいるから。それに俺がこんな風に誰かに抱き締められていたら、過去の自分だとしても正悟はきっと大騒ぎをします。あいつ、貴方と同じで本当にヤキモチ妬きだから」
「ふふっ。惚気られてしまったね」
「そ、そんなんじゃ……」
仁が嬉しそうに笑うものだから、顔から火が出そうになる。
「よかった。君達が幸せになれそうで。本当によかった」
「仁さん、もう大丈夫です。俺はきっと幸せになれるから」
「うん……そのようだね」
砂がサラサラと風に吹かれて攫われていくように、仁の姿が少しずつ消えていく。その光景に胸が張り裂けそうになったけれど。追いかけてはいけない……そう思い、伸ばしかけた手をそっと下ろした。
消えちゃう……。仁さんが消えちゃう……。
渉の胸が張り裂けそうに痛んで、「行かないで!」と縋りつきたい衝動に駆られる。それを唇を噛み締めてグッと耐えた。
「仁さん、ありがとう。あの時、手を離さないでいてくれて」
「うん。幸せになってね」
「仁さん……」
渉の声が涙で詰まって、小さく震える。そして項の傷をそっと撫でた。
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