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【第一章 忍び寄る絶望】緋色の闇(1)

 花の香りの香水を、彼女はまとっていた。  爽やかな甘さは心地好くもあったのだ。  シンシア──それは、レオンハルトの婚約者だった女の名だ。  だが、残り香はもう感じられない。  すんと息を吸い込むと、喉の奥からせりあがってくるのは慣れた血の匂いだ。  愛などはお互いになかった。  貴族同士の婚姻だ。  そこには家格や役職という打算が絡む。  王族に連なるシュルツ家の令嬢と、三流貴族とはいえ容姿端麗で頭脳明晰と評される若者を結ばせる。  いわゆる「大人の思惑」が色濃く表れた婚約であったが、レオンハルトは昨日まではこう思っていたのだ。  結婚するからには彼女を悲しませてはならない、大切にしようと。  いつか想いあえる日がくるかもしれないではないか。 激しい愛とは無縁であっても、子を作り家族となり生涯を穏やかに過ごすことができたらと。  だが、レオンハルト・クラインの人生には常に血の色がつきまとう。  今回の「緋(あか)」は、シンシアの破瓜の色であった。  予想した幸せは、もう未来のどこにもないのだ。    ※   ※   ※  柔らかなシーツの上で目を覚ましたレオンハルトは、黒髪をかきあげ額を押さえた。  頭が割れるように痛い。  熱に浮かされたように思考回路が鈍いのは、夕べ飲みすぎたせいだ。 「おはよう、レオ」  降り注ぐ声にレオンハルトはぼんやりと顔をあげた。  きれいに襟足を切りそろえられた黒髪。  瑠璃色の眸には、窓から射しこむ朝の光がまたたいている。  薄く開かれた桃色の唇が、親友の名を紡いだ。  頬を撫でるヴィルターの手が冷やりと気持ちいい。 「……ヴィル、泊まってたのか?」  遊びにきた親友がそのまま泊まっていくのはよくあることだったから。  こめかみを押さえ寝ぼけ眼で呻いてから、レオンハルトはようやく我に返る。  掛け布団にくるまった身体に何も衣服をつけていないと気付いたのだ。 「あっ……」  途端、夕べの記憶が蘇る。  どうしようもなく飲んだくれ、目の前のこの男に縋りついた。  どちらが先に求めたのかは最早分からない。  素肌を触られ優しい言葉を囁かれ、ただ充たされた思いだけが残る。  寝台の傍らに立つヴィルターの手を見やり、レオンハルトはさりげない動作を装って掛け布団で身体を隠した。  その指で捏ねられた乳首が露わになっていることに、急に羞恥を覚えたからだ。  精液でしとどに濡れた腹や胸はきれいに拭いてある。  これもヴィルターの優しさなのだろうと、レオンハルトは耳朶が熱くなるのを感じた。 「ふ、服を……」  そっけなさを意識した声は、しかし震えている。  レオンハルトの部屋にある家具の、どこになにがあるか熟知している親友はベッドサイドにすでに着替えを一式用意してくれていた。 「おれがするよ」 「うん」  促されるがままに寝台に腰かけ、子どものように下着を着せてもらう。  股の間や胸に視線を感じ、心臓のあたりがカッと熱くなった。  高鳴る心音が部屋中に大きく響いてやしないだろうか。  下着を着せて、シャツのボタンをひとつひとつ留めてくれる指に視線を落とす。  恐ろしいくらい短く切りそろえられた爪が陽の光を受けて透明に輝いていた。  動作のたびに微かに触れる指の冷たさに安堵する。  夕べはこの手がすべて包んでくれた。  首筋に、胸に、唇に、今も生々しい感触が残っている。 「なぁ、ヴィル……」 「レオ、今日は……」  甘えを含んだ囁きと、朝の冷静さを取り戻した声がぶつかった。

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