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緋色の闇(6)
「夕べはご苦労だったな。レオンハルト・クライン」
「……はっ、陛下」
取り澄ました返事に、失笑とも苦笑ともつかぬ音が漏れた。
「そう固くなるな、レオンハルト・クライン。これで僕たちは兄弟だ」
囁きにも近いルーカス王の声に、商人らの間で下卑た笑い声がおこる。
レオンハルトは机の下で拳を固めた。
何が兄弟だ。まっさらな彼女を汚したくせに。
「どうした、レオンハルト・クライン。シンシアに会っていくか? まだ寝ているかもしれないが」
「いえ、陛下……」
拳はカタカタと震える。
両手を握りしめて何とか堪えるうちに、震えは全身に広がった。
──この場所は嫌だ、早く出ていきたい。
──今は耐えるんだ。我慢するしかない。
相反するふたつの感情がせめぎ合う。
レオンハルトは無意識のうちに息を止めていた。
公会議場は王宮の一室を使用している。
会議の性格を考慮してか、情報が漏れないよう部屋には窓がない。
そのためか、室内はひどく澱んでいた。
ここに来るたびに感じるのだ。
噎せ返るほどの血の匂いを。
耐えきれずレオンハルトは咳込んだ。
どうした、レオンハルト・クラインと王が茶色の目を細める。
噎せながらレオンハルトは首を振った。
多分気のせいなんだ。
だってほかの人は何も反応していない。
そもそも、国王が出向く場である公会議場に血の匂いなど漂わせたままでいるわけがないではないか。
だが、眸をつむると瞼の裏は緋色の闇に覆われた。
レオンハルトの父がここで血を吐いたのは、今から二年前のことだ。
「レオンハルト・クライン? 汗をかいているな。僕の部屋で休んでいくか?」
王の訝し気な口調に、レオンハルトは我に返った。
「な、何でもありま、せん……」
息を吸って、吐いて。
父の名誉のためにも、今は耐えるんだ。
しかし身体の奥が異様に熱い。
心臓が焼けただれそうだ。
冷たいものに触れたい。
冷たいものに全身を包まれたい。
「………………」
王の口が動いている。
でも、なにを言っているのか聞き取れなかった。
もともと、ルーカス王は声が小さいのだ。
いや、自分の耳がおかしくなってしまったのか?
商人らの笑い声が耳の奥で蘇る。
目の前には、緋が落ちる。
「レオンハルト・クライン?」
名を呼ばれ、レオンハルトは弾かれたように顔をあげた。
ルーカス王がこちらを見ている。
「へ、陛下……?」
机に手のひらをついて身体を支えながら立ち上がったのがいけなかった。
ずるりと手が滑り上体が傾ぐ。
下半身で踏んばるものの、腰がかくりと折れた。
椅子が床に倒れる音。人の叫び声。
視線が壁を走ったかと思うと天井を仰いだ。
やがてレオンハルトの視界は緋色の闇に閉ざされる。
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