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緋色の闇(8)

   ※  ※  ※  額に冷やりとした感触。  ──気持ちいい。  緊張に縮んでいた目の奥の血管がゆっくりと解けていく。 「ん、ヴィル……?」  ゆっくりと開かれた瑠璃色の眸に、装飾の施された天蓋がぼんやりと映った。  大きな寝台の四隅には細工を施された柱。  上からは金刺繍に縁どられた豪奢な布が垂れ下がっている。  睫毛を透かして見える景色は見慣れないものだ。 「ヴィルとは誰だ?」  囁くような声がすぐ近くで聞こえ、夢うつつをたゆたっていたレオンハルトの意識が一気に覚醒する。  がばっと飛び起きたところを、寝台脇から伸びた手が押しとどめた。  手入れの行き届いた手にはいくつもの高価な宝石が輝いている。 「へ、陛下……」  声が掠れ、喉が嫌な音をたてた。  豪華な寝台に腰を掛けていたのはくすんだ金髪を垂らし、襟元に金刺繍を施されたシャツを着こんだ人物である。  この国の王、ルーカスだ。  ならばここは王の部屋ということか?  レオンハルトは、だだっ広い室内に視線を走らせた。  大貴族の跡取りであるヴィルターの部屋でも見たことのない金細工の置物、瀟洒な造りの家具。  あちこちの壁にとりつけられた燭台ですら、複雑な細工を施されている。  その中に一点。  染みのように黒く沈み込む人物の姿に、レオンハルトは身を震わせた。  《王の影》と呼ばれる護衛だ。国王の私的空間ということもあってか、ここには指導者格の頬傷の人物が一人控えているだけである。  ただし、鋭い眼はレオンハルトを睨み据えたまま。  大仰な黒鎧の金属を鳴らし、腰の大剣にはいつでも抜けるように手が添えられていた。 「なぁ、ヴィルとは誰なんだ?」 「そ、その……」  友人ですと答え、レオンハルトは寝台から降りようと身をよじる。  だが、その肩は再び押しとどめられた。 「いつもおまえに付きまとっているのが一人いたな。友人なら仕方ないか」  肩をつかむ手に力が込められる。  痛いから放してくれと、どのように言えば不敬にならないか考えているうちに、王の手から力は抜けた。 「僕が手ずから運んで介抱してやったんだ。もう少し寝ていろ」  その言葉でレオンハルトはようやく自らが犯した失態に思い至る。  そうだ、公会議の席上でルーカス王に話しかけられたところまでは覚えている。  王は声が小さい。聞き取ろうと、変に力が入ったのかもしれない。  急に目の前が回って……。  濡れた手拭いが膝の上に落ちている。  触れると冷やりと心地好かった。  しかし背にはシャツがピタリと張り付いている。  こちらは冷や汗であろう。 「こ、公会議という栄誉ある席に並ばせていただきながら、とんだ失態を……」  あの部屋で血を吐いた父は、死後に議員職を罷免された。  なぜなら公会議議員の任命権は目の前のこの人物が握っているからだ。  ルーカス王の薄い唇が震えるたび、心臓は縮みあがった。  二度と公会議の場に来るなと言われるような気がして。 「気にするな。今日はじっとりと嫌な暑さだ。気分も悪くなろう」 「は……」  背に張りついたシャツが、徐々に冷たく感じられた。  王の寛大さに感謝すべきなのか、それとも高慢な王には別の思惑があるのか。  どちらにしろ、いつまでも寝台に座っているわけにはいかない。  レオンハルトはもぞもぞと身体を動かした。  彼の焦った様子に気付いたのだろう。  ルーカス王がニヤリと笑みをこぼす。 「僕のベッドだ。さっきまでシンシアがここで寝ていた」 「なっ……」  レオンハルトは瞬間的に尻を浮かせた。  胸を押さえたのは、こみあげる吐き気を抑えるためだ。  顔を強張らせた彼に、ルーカス王は可笑しそうに声をあげる。 「冗談だ。そんな顔をするな、レオンハルト・クライン」  冗談だと? なんて悪趣味な。  いや、王の不興を買わないよう、ここは一緒に笑うべきなのか?  そもそもこの王は冗談なんて言う人物なのか?  どちらにしろ、笑みを作るのには失敗した。  レオンハルトの頬がぴくぴくと痙攣したのを見やり、ルーカス王は突然黙りこむ。  こうなると豪奢な天蓋から湿り気を帯びた重い空気が落ちてくるようで、緊張と恐怖に目の前が回るよう。  扉のそばに控える黒づくめの護衛の姿がやけに大きく見えて、手のひらにじっとりと汗が滲んだ。  沈黙は時間にしてわずか十数秒のことだったろう。  幸いルーカス王は気にした様子もない。  つと手を伸ばすと、宝石で飾られた指がレオンハルトの細い顎を捕らえる。

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