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緋色の闇(9)

 くいと上を向かせられると、意外なほど近くに王の顔が迫っていた。  茶褐色の眼球に、驚愕に強張るレオンハルトの顔が映っている。 「へ、いか……?」  何をするのですと、反射的に押しのけそうになったときのことだ。  ルーカス王が視線を落とした。  一瞬揺らいだ視線の影に見えた感情は寂しさというものか? 「幾つになった? だんだん父親に似てきたな」 「じゅ、十九歳です。その、父は……」  しかし、ルーカス王はレオンハルトの返事など聞いてはいなかったようだ。 「父親とはどんな話をしていた? 家で……僕のことは何と言っていた?」  なんとか細い声であろうか。  すべてを手にした王が、なぜこうも自信なさげに喋るのだろう。 「十年前に母を亡くして以来、父はその……不安定で。家では会話らしい会話は何も……」 「そうだったな……」  それよりも手を放してほしい。  至近距離で正面から王の顔を見返すこともできず、レオンハルトは視線だけで逃げている。  だが、ルーカス王の指はギリギリと彼の顎を捕らえ離さない。 「昔から神経の細いところがあった。それなのに女と出会って、ほとんど駆け落ちのように……」 「陛下?」  ──あの女と出会ったせいで。いや、あの女がいたおかげで、おまえが生まれたとも言えるか。  恨み言を呟く調子で、しかしルーカス王の目は強い光を放っていた。 「へ、陛下。何を……」  震える唇を、ふにゃり──指が這う。  近付く顔。  伏せられた瞼の隙間に燃えるような鋭さを感じ、レオンハルトは恐怖した。  それは、反射的な動きである。  密着する王の身体を、レオンハルトの腕が突き飛ばしたのだ。 「うっ……」  よろめき、ルーカス王は派手に転がる。  瞬間、レオンハルトの首に冷たい刃が突きつけられた。  先ほどまで扉の前にいたはずの黒衣の護衛が、今はレオンハルトを見下ろしている。  しまったと後悔してももう遅い。  王に手をあげるなど、今すぐ首を刎ねられても文句を言えないではないか。  いや、自分の命はいい──もういい。弟エドガーと、それから父の名誉をこんなことで失うわけにはいかなかった。 「へ、陛下、申し訳ありま……」  か細い謝罪の声を、ルーカス王は手を払って打ち消した。  ついでのように黒衣の護衛にも視線をくれる。  レオンハルトの喉元から剣が引かれた。  何事もなかったかのように黒衣の人物は扉脇の定位置へと戻る。 「あの、陛下……?」  ──もういい。  小さな小さな呟き。 「えっ?」  聞き返そうと身を寄せたとき。  王が激高した。 「構わん! ここから出ていけ、レオンハルト・クライン!」  心臓が跳ねる。  謝罪の言葉など何も出なかった。  転がるように寝台から落ち、黒衣の人物が開けた扉から飛び出す。  扉の前に控える護衛たちと肩がぶつかることも構わず、王宮の廊下を走った。  心臓が跳ねる、跳ねる。  嘔吐を懸命にこらえて、レオンハルトは人の気配のない一画で膝をついた。  きっと、自分は失敗したんだ。  見下ろす両手は情けなく震えている。  婚約者を差し出してまで媚びた王の怒りを買った。  目の前に広がるのは絶望の未来しかない。  家も弟も父の名誉も、大切にしていたすべてを失ってしまう。  そのあとに一体何が残るというのか?    ※  ※  ※

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