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緋色の闇(10)

   ※  ※  ※  夢の中で聞いた女の悲鳴が耳の奥で鳴り響く。  目の奥がズキズキと痛み、こめかみが波打っていた。ひどい頭痛だ。  街外れの屋敷までの道を馬で駆けるが、爽やかな風は感じられない。  暑い。身体に熱を取り込んだみたいだ。  中天に輝く太陽が、じりじりと初夏の熱気を放っていた。  ──本当に送らなくてよいのか?  王宮から飛び出し、訪問者用の厩(うまや)で出くわしたジェローム・シュルツにかけられた言葉だ。  大貴族にして公会議の長である男は、貴族というより軍人のような厳めしさを持っていた。  ヴィルターの父である。  レオンハルトからすれば友だちのお父さんという感覚では、もちろんない。  身分と地位を兼ね備えた人物であり、没落貴族のレオンハルトからすれば本来親しく言葉をかわせる相手ではなかった。  数名の従者に馬の世話を任せながら、ジェロームは何度か「大丈夫か」とレオンハルトの顔を覗きこんだ。  公会議の場で倒れ、今また表情を強張らせながら王宮から転がり出てきたのだ。  馬の手綱を握る手は震えているし、顔色だって相当悪いに違いない。 「だ、大丈夫です。閣下」  うわごとのようにレオンハルトは何度も繰り返した。  こうして気にかけてくれるのは、ヴィルターの父が人格者であるがゆえだ。  それだけに夕べのことを思い出すといたたまれない。  跡取り息子に、あろうことか性欲処理をさせてしまった。  身分も低く、将来も定かではない若造に大切な娘を娶せようとしてくれている恩人なのに。  そこまで考えて、レオンハルトは己の最低な行動にようやく思い至る。  シンシアのことだ。 「……すみません」  こんな薄っぺらい言葉が何になろうか。  そもそもこの場合、相応しい謝罪などが存在するのだろうか。 「いや……」  目の前の青年が何について謝っているのか察したのだろう。  ジェロームは一瞬、言葉を詰まらせた。 「陛下の要求には逆らえまい。致し方のないことだ」  感情を押し殺しているのが分かる。  なぜ娘を守れなかったのだと、腸が煮えくり返っているはずだ。  場合によっては剣を向けられてもおかしくない。  だが、ジェロームはその場で俯いただけだった。  いっそ怒鳴りつけ胸倉をつかみ、殴りかかってほしい。  レオンハルトの中で罪の意識が膨れあがる。  心臓の音が耳元でズンズンと打ち響いた。 「……それよりも、気を付けられよ。レオンハルト殿」  かつての婚約者の父の口調は固い。  意図的に話題を変えようとしているのは明らかだ。 「エドガー殿といったな。弟君のことだ」 「弟が何か?」  目元を引きつらせるレオンハルトに、ジェロームは声をひそめた。 「街での素行が悪いと公会議議員の間でも噂になっているようだ。陛下の耳に入っては、どんな咎めを受けるか分からぬ」  ──王の暗殺部隊は裁判もなく、闇から闇に人を葬る。  従者にすら聞こえぬよう小声なのは、場所を慮ってのことだろう。  レオンハルトの脳裏に黒衣の護衛の姿が蘇る。  剣を突きつけられた喉元が突如、熱を帯びた。  護衛だけではないのだ。《王の影》は、主人の意向に従って人の命も簡単に奪うという。 「気を付けろ」  もう一度言われ、レオンハルトは頷いていた。  ジェローム・シュルツに見送られ独り帰路につく街路でも、雑踏が雑音となってレオンハルトを蝕んだ。  街を抜けるなり騎乗し、駆ける。  館は街の外れ。  うっそうと広がる森の際だ。  ──シンシアを差し出すんじゃなかった。  ──どんなに気分が悪くても公会議の場で倒れるなんて失態を犯すんじゃなかった。何としても耐えなくてはならなかった。  それに──まさかとは思うが──王に求められたのだとしたら、拒んではならなかった。  昨日から自分はすべての選択を間違えたのだ。

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