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高貴な瑠璃は散らされる(2)

 レオンハルトは部屋へ戻った。  会話が聞こえていたのだろう。  ヴィルターがもう衣服を身に付けている。 「おれも行くよ」 「……すまない、ヴィル」  本当は帰れと言うつもりだった。  異変が起こったなら一人で対処すべきだ。  ヴィルターを巻き込むわけにはいかない。  だが優しい手に頬をそっと触れられ、思わず甘えがでた。  上着をきちんと着こむとふたりは玄関へと向かう。 「いつもの、その……外出とは思えなくて」  ばあやが追ってくる。  夜遊びではなく「外出」という言葉に、多分な気遣いが感じられた。 「いつもの女遊びなら街へと向かうはずだ。それに、あいつは乗馬が下手だ」  わざわざ馬を連れ出したということは遠出のつもりなのだろう。  ヴィルターの父であるジェローム・シュルツに言われたことも引っかかっている。  弟の素行が悪いと噂になっている。  気を付けられよ──と。 「森を抜けるということは、街道へ出るつもりか? エドガー、一体なにを考えて……」  クライン家には馬は一頭しかいない。  それをエドガーが使っているということは、当然レオンハルトは徒歩で追うことになる。  玄関扉を開くなり目の前でサワリと揺れる黒い影は森への入口だ。  月のあかりも木々に阻まれ届かない暗闇である。  昼間であれば何度も通っているものの、さすがのレオンハルトも夜の森へ足を踏み入れるのは躊躇われた。 「坊ちゃん、我々が行きますから」  洋灯(ランタン)を持って、じいやが声を張り上げる。  大声で気合を入れなくては臆してしまうのだろう。 「もう夜も遅い。じいやとばあやは寝んでいてくれ。なに、森は悪路だ。馬ではかえって手間取る。乗り慣れていないエドガーは、きっとそのへんで立ち往生しているよ」 「そ、そうですよね。坊ちゃん」  軽口に、老夫婦の身体から緊張が解ける。  洋灯だけもらってレオンハルトは庭を抜け、森へと足を踏み入れた。 「うちへ戻って馬を連れてこようか?」  背後からのヴィルターの声に首を振る。  右足の裏は湿った草の感触。  左足には木の根が、靴の裏越しにボコボコと当たっている。  今しも足を取られそうだ。  徒歩のほうが進みやすいのは明らかである。 「何だってこんな時間に森へなんか……」  気持ちは焦るが、今は自分たちの足元を照らしながら慎重に進むしかあるまい。  年月を経て渦を巻く木の幹と幾重もの葉に覆われ、僅か先ですら見渡すことができない。  洋灯の明かりのなんと心細いこと。  ヴィルターが隣りにいてくれることに、レオンハルトは心の中で感謝した。  おかげで足が震えずにすむ。 「待て、レオ。何か聞こえた」  肩に置かれた手に力がこめられた。  その場に足を止め耳を澄ませると、夜の空気を振動させる低い声。  これは馬の嘶きか?  次いで聞こえる「クソッ」という叫びはエドガーの声だ。  意外と近い。  夜の森で、洋灯の明かりは遠くからでもよく目立つ。  こちらに気付いたのだろう。  動揺している気配が伝わってくる。 「エドガーか? 俺だ」 「あ、兄貴か?」  安心させようと声をかけたつもりだが、向こうは焦っている様子だ。  灯りひとつ持っていないくせに駆け出すのが分かった。  「あっ」と叫び声。  次いで地響き。木の根に足をとられ転んだのだろう。 「大丈夫、エドガー?」  女の声が続く。  ああ、やはり女連れなのか。  一体どこへ向かおうとしているのだと、ため息をついた瞬間。  声に聞き覚えがあると気付いた。  嫌な予感が強まっていく。  声の元へ近付き洋灯を掲げるより早く、花の香りが鼻孔をくすぐった。  香水の匂いだ。 「エドガー、誰と……一緒なんだ?」

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