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「俺を奪え」(1)
痛覚を直に穿つほど、降る雨は激しい。
馬の脚を泥で汚し、駆けていく一騎。
石畳の街路はまだ良かった。
森の近くに位置する屋敷周辺は舗装されていない。
やわらかく沈む地面に、馬は難儀しながら主人を運んでいる風だった。
普段なら馬を降り、道を選びながら慎重に歩を進めていただろう。
だが、今のレオンハルトにその余裕などあろうはずもなかった。
馬の首にしがみつき、硬い毛並に顔を埋めるだけ。
身体中が痛い。
肌にベタベタと嫌な感触が残る。
今もあの手がそこかしこを這い回っているようで彼はただ怯え、身を縮めるだけだった。
どうやって帰ったか記憶すら定かではないものの、街外れの屋敷の前で転がり落ちるように馬から落ちる。
「どうした、レオ。びしょ濡れじゃないか」
窓から馬の姿を認めたのだろう。
驚いた様子でヴィルターが駆けてきた。
続いてばあやがお玉を持ったまま顔を出す。
朝、出かけた主人が夕方になってようやく帰ってきたと思ったら、ただ事ではない様子だ。
うろたえ、玄関先に呆然と立ち尽くしている。
その後ろから、じいやも顔を覗かせた。
こちらは今の今までエドガーを探し歩いていたのだろう。
疲れ切った様子だ。
「ヴィル……」
レオンハルトの声は雨の音にかき消された。
腰に力が入らず足が震え、歯の根が合わずカタカタ鳴る。
よろけたところを、濡れるのも厭わず駆け寄ったヴィルターに抱きかかえられた。
きっとヴィルターは家にシンシアがいないことに気付き、伝えに来たのだろう。
レオンハルトが留守なものだから、しかも王から呼び出しがあったと聞いたものだから心配してこんな時間まで待っていてくれたに違いない。
お前の妹は無事──といって良いのだろうか。
少なくとも怪我などはしていない。今は王宮にいるよ。またエドガーが連れ出したんだ。すまなかったと、まずは謝らなくてはならないはずだ。
なのに口を開きかけた途端、迸るのは別の言葉。
「ヴィル、なんで俺を助けにこなかった? 俺はお前のことだけを考えていたのに……」
「レオ……?」
きれいに切りそろえられた襟足の際に残る艶めかしい痕に気付き、身を固くするヴィルター。
その胸倉をレオンハルトはつかみあげた。
「ヴィル、俺を奪え。今すぐだ」
何があったか察したのだろう。
腰をつかむヴィルターの手が小刻みに震える。
「レオ」と囁く声は低く、込みあげる感情を必死に制御しているように感じられた。
「レオ、湯に浸かろう。おれが身体をきれいにしてあげるから」
力を失ったレオンハルトを抱えるように屋敷へと戻る。
すでに家族同然のばあやに目配せすると、彼女はお玉を持ったまま浴室へと駆けた。
二人のために扉を開けてやると、心配そうに目に涙をたたえる。
「あたたかいスープを用意しておきますからね。雨で冷えて風邪をひいてはいけないわ。しっかりあったまってください」
そこに彼女がいるとようやく分かったのか、レオンハルトが微かに視線をあげる。
うなずいてみせたことで、ばあやは安心したようだ。
だが、ばあやが作った大好きなスープでも、今飲めばきっと嘔吐してしまうだろう。
クライン家の浴室は、排水設備の整った部屋の真ん中に小さなバスタブ、それから湯をためておくタンクが設置されているという簡易的なものだ。
ふたりで部屋に入るなり、ヴィルターがレオンハルトの衣服を脱がしにかかる。
破れ、ボタンが飛んだシャツが、レオンハルトの身に何が起きたのか如実に物語っていた。
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