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荒れ狂う緋(あか)(1)
懐かしい花の香が鼻孔をくすぐる。
「……エドガー?」
ゆるやかな覚醒を破ったのは、断続的に響く女の悲鳴であった。
──俺を責めているのか。すまない。
瞼の裏が緋色の闇に覆われる。
反射的に、瑠璃色の眸が見開かれた。
「ひどくうなされていましてよ、レオンハルト様」
涼やかな声は、驚いたというよりも呆れたといった響きである。
額を流れる汗にレオンハルトが気付くより先に、白いハンカチが差し出された。
畳まれたハンカチを広げた瞬間、ふわりと漂う優しい花の香り。
そこにいたのは、彼のかつての婚約者シンシアであった。
「あ、ありがとう。ここは……?」
強張っていた肩から力が抜けた。
視界に緋い光が射し、レオンハルトは眸をしばたたかせる。
「ここはうちの別荘よ。レオンハルト様も幼いころに何度かいらしたことがあるでしょう」
「あ、ああ……」
都から馬で数時間。
湖のそばに建つ瀟洒な造りの別荘はシュルツ家の持ち物である。
シンシアが言うように、レオンハルトにとっても馴染みのある建物だ。
しばらく訪れてはいなかったが、細工を施された調度や華やかな色合いの壁紙には、たしかに見覚えがある。
自宅の部屋よりも倍近い広さのゆったりした空間。
その窓辺におかれた寝台に彼は寝かされていた。
ならば、腰高の窓から斜めに射しこんでいる眩しい緋色。
これは夕陽の色なのか。
細く開けられた窓からは風の唸りが聞こえる。
女の悲鳴と思ったのは、湖上を滑るそよ風の音だったのだ。
「うっ……」
寝台の上で身体を起こしてレオンハルトは呻いた。
「動かないほうがいいわ。傷は浅いって医者は言っていたけれど、あんなに血が出ていたのだもの」
「あっ……」
記憶が蘇る。
レオンハルトは己の腹を見下ろした。
清潔な白いシャツの裾をめくれば、包帯が巻かれているではないか。
──そうだ、ルーカス王と揉みあって。俺は花瓶の破片で自分の腹を……。
「陛下のマントを握ったまま意識を失っていたの。血まみれで……。死んでるのかと思って驚いたわ」
寝台の傍らに置かれた椅子に座り、シンシアは可憐な顔を歪めてみせた。
そのときの光景を思い出しているのだろう。
《公会議》の招集に応じないレオンハルトを、ルーカス王は怒るでもなく心配していたという。
あまりに気になったか、お忍びで様子を見にいくと言いだし、シンシアは供をさせられることになったらしい。
街外れの小さな屋敷まで、シンシアにとっては慣れた道だ。
だが、家の前で待っていろと言われたときにホッとしたという。
エドガーの息遣いが今も感じられるこの建物に入るのは、やはり辛いのだろう。
「森のそばで待っていたら、陛下が血相変えて出てきたのよ。声をかけても上の空で馬に飛び乗って一人で行ってしまわれた」
嫌な予感がして屋敷の玄関を開けたという。
そこで血まみれになって倒れているレオンハルトを見つけ、馬に乗せてここまで運んでくれたのだ。
「すまなかった、シンシア。俺なんて放っておけばいいのに……」
「どうしてそんなことを言うの……」
シンシアは小さなため息をついた。
「わたしも少し思ったわ。放っておいてやろうかしらって。でも、エドガーに咎められる気がしたの」
「人が好いな、君は」
「あら、あなたも大概だと思うわよ」
元婚約者同士は静かに微笑みあう。
大切な存在を失った者どうしの共感が、そこにはあったのだろう。
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