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荒れ狂う緋(4)
※ ※ ※
湖面はさやさやと軽やかな音をたてていた。
木々の葉の緑が地面に爽やかな影を落とす。
柔らかな下草を踏みしめるたび、若葉の香がふわりと匂いたった。
黒髪を風に遊ばせ、湖の周りをゆっくりと歩くのはレオンハルトだ。
湖面を渡る夏の風が心地好い。
シンシアの手によって運び込まれてから、早二週間。
身体をねじればまだ痛みが走るものの、当初の医者の見立てどおり傷はほぼ完治したといってよかった。
夜着の上に羽織るのは高価な布地を使ったガウンで、ヴィルターが取り寄せてくれたものだ。
鮮やかな瑠璃色がレオンハルトによく似合う。
その胸元にはキラリと黄金が輝いていた。
「エドガー……」
悲しみをたたえた呟きは、すぐに風にかき消された。
首にかけた細い鎖。
心臓のかたちをした指輪が揺れている。
ともすれば禍々しい形状にも見えるそれは、母と父、そして弟の形見の指輪であった。
握りしめると、体内を熱が駆け巡る。
王と揉み合ったときに失くさなくて良かった。
今となっては、この指輪はレオンハルトにとって復讐の象徴となるのだ。
「……つっ」
不意に風が強くなった。
湖の上を滑る音が、まるで女の悲鳴のように聞こえてレオンハルトは身を固くする。
もうすぐ夕刻だ。
寝室に戻るべきだろう。
でも──。
所在なさげに、彼はその場に立ち止まる。
そういえば幼いころは、この風がお化けの悲鳴のように思えて怯えていたっけ。
子供じみた恐怖心は、今となっては笑い話だ。
そうやって思い出の中に逃げるのは、できれば部屋に帰りたくないから。
もう少しここに独りでいようか。
そう考えた時のこと。
「レオ、こんなところにいたのか。おれが食器を下げに部屋を出た隙にいなくなるから、心配したよ」
下草を踏みしめる匂いが一際濃く漂ってきた。
屋敷のほうから駆けてきたのはヴィルターである。
「あ、ああ、悪かったな」
ヴィルターの顔色は悪い。
レオンハルトが寝台からいなくなって、血相変えて探してくれたのだろう。
心配をかけているのは分かるし、申し訳ないとも思う。
だが、正直──。
「……息が詰まる」
「ん? レオ、何か言ったか?」
「い、いや、何も……」
元より大層な怪我でもなかったのだ。
すぐに動けるようになったのだが、それでもヴィルターは寝台まで食事を運んでは手ずから食べさせてくれた。
この二週間ヴィルターとしか顔を合わせていない。
屋敷内にはシンシアや数名の使用人もいるようだが、初日以来会ってはいなかった。
ヴィルターに止められているのか、あるいは彼女自身がかつての婚約者の部屋に寄りつこうとしないのか。
どちらにしろ、過保護すぎる親友にうんざりしていたのは事実だ。
──いや、そんなことを考えてはいけない。ヴィルは俺を守ろうとしてくれてるんだから。
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