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深淵に王を堕とせ(2)
目の前の青年に、かつてない凄みを感じたのだろう。
王が短く悲鳴をあげる。その口を、レオンハルトの手が押さえつけた。
「黙れよ」
薬の力で昏々と眠る《王の影》は、ちょっとやそっとの物音や悲鳴には気付くまい。
だが王宮には、それ以外にも多くの使用人がいるのだ。
王の私室で起こっている異変を悟らせてはならない。
王の口を塞ぎ寝台に押し倒し、圧し掛かる格好となる。
しかし危機迫る状況と相反して、抑え込まれたルーカス王はとろりと目を細めた。
「レオンハルト、その指輪は……」
「えっ?」
レオンハルトの胸には金色の飾りが揺れている。
母の、父の、そして弟の形見となった心臓のかたちの指輪だ。
ヴィルターが寝ているあいだに取り返し、そっと別荘を出てきたのだ。
その指輪に、こともあろうにルーカスが手を伸ばした。
またもその手を叩き──いや、今度は腕を折ってやろうかと考えたとき、ルーカス王の薄い唇が震えた。
同時に茶褐色の目から滂沱と涙がこぼれ落ちる。
「兄さん、兄さん……なんで僕を置いていってしまったんだ」
「な、なにを言って?」
レオンハルトが怯んだ隙に、ルーカスの手が指輪をわしづかむ。
バランスを崩し、レオンハルトは王の身体の上に倒れかかった。
その髪を、ルーカスの手が撫でる。
「ああ……兄さんと同じ色の髪、兄さんと同じ色の眸だ。高貴な輝きを湛えた瑠璃色の美しさときたら。僕は兄さんの眸が大好きで……」
「な、何の話だ?」
レオンハルトの瑠璃の眸が揺らぐ。
心臓のかたちをした指輪が、突如ズシリと重くなった気がした。
ルーカス王の視線は遠くを──懐かしい昔の光景でも見るかのようにあたたかく細められる。
「心臓のかたちは、命を表すものだ。それは、僕の兄さんフレデリクが使っていた紋章なんだ」
──心臓の紋章?
──いや、待て。フレデリクといったか?
レオンハルトは混乱した。
父が母に送った手紙にも、これと同じ形の紋章の透かしが入っていたっけ。
だが、そんなものに何の意味があるというのだ。
ルーカス王即位と同時に、紋章なんてものは使われなくなった。
どんなに権威があったとしても、それは過去の遺物にすぎないではないか。
いや、待て。
ヴィルターの言葉を思い出せ。
王太子が使っていた紋章が分かったと、彼はそう言っていたではないか。
まるで重大な事柄を話すかのように。
あのときは死んだエドガーのことで頭に血が昇っていた。
ヴィルターに怒鳴りつけた覚えがある。
「……思い出せ。あのとき、ヴィルは何と?」
心臓のかたちの紋章は、当時の王太子が使っていたものだ──ヴィルターはそう続けたのではなかったか。
その形は兄フレデリクが使っていた紋章なんだ──それは、ルーカス王が今しがた口にした言葉だ。
「フレデリク、だと……?」
それはレオンハルトにとって、実に身近な名であった。
クライン家の先代、つまり亡き父の名前である。
「なぁ、レオンハルト・クラインよ」
圧し掛かられて今しも剣を突き立てられそうな体勢ながら、ルーカスの表情は穏やかだ。慈愛に満ちていると表現しても構わないほどに。
その手が髪を撫でるのを、これほど疎ましく感じたことはない。
「その指輪は兄が駆け落ちするときに作ったものだよ。僕の甥、レオンハルトよ」
「なっ……」
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