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深淵に王を堕とせ(3)

 押さえこんでいた手が震え力を失ったせいで、ルーカスはレオンハルトの手首をつかみあげ起き上がった。  互いの息が触れ合うほど近くで王は囁く。 「成長するにつれ日一日、兄さんに似てくるな、おまえは。僕の前に兄さんが帰って来てくれたのかと思うほどに。抱きたくなる……」 「は、放せ……」  組み敷かれた忌まわしい記憶と、秘められた事実が目の前に開けていく衝撃に、レオンハルトの身体が強張る。  その細い肩にルーカスの手が添えられた。  身体を奪われたあのときのように力強い手だ。 「いや、だ……」  だが、今夜の王は慈悲深かった。  あるいはルーカス自身、過去の思い出に浸っているのだろうか。  レオンハルトの肩をぽんぽんと何度も叩いて、まるでそこにはいない誰かに話しかけるように静かに囁く。 「兄さんは繊細で思いやりがあって優しくて。でも驚くほど大胆な所もあって。僕にとって自慢の兄だったよ。良い王になると思ってた」 「………………」  ルーカスの唇にのぼるのは邪気のない笑みだ。  言葉は本心であり真実なのだと、その表情が物語っていた。  そうして、王は語りだした。 「今から二十年前か。僕がおまえくらいの年齢のころだな。兄さんは出会ってしまったんだよ。一人の町娘に。そう、おまえの母親だ」 「母上……」 「兄さんはのぼせあがってたけど僕から言わせれば、さりとて美しくもなく何の取柄もないただの小娘だ。結婚するなんて紹介されたけど、そんなのうまくいくわけがないと思った」  当然というべきか。父王は怒ったという。  すると王太子だったフレデリクは、意外な行動力をみせる。  娘をつれて駆け落ちをしたのだ。 「駆け落ち?」  レオンハルトは顔を歪めた。  王の言葉に説得力を感じるのは既視感ゆえか? 「……エドガーの父だな。やることが無茶苦茶だ」  笑うつもりなどない。  だが、苦い笑みがこみあげる。  そうすると、かつてのルーカスは今の自分のように胃をキリキリと痛めたのだろうか。 「おまえは見た目は兄さんにそっくりだ。でも、あんなに思い切った行動はとらないだろう。ぐずぐずといつまでも考え込んで、中身は僕に似ている。だからよけいに愛おしい」  ルーカスは静かに微笑する。 「兄さんはあれで頑固だ。おまえも知っているだろう。こうなると兄さんの不始末は僕が何とかしなきゃならない」  幸いというべきか、兄さんと僕はこの王宮で暮らさず、気候の良い離宮で生活していたんだと、王は静かに続ける。 「王太子の駆け落ちなんて恥だから、王族だって口をつぐんでいる。心労もあったか、ほどなくして父王も死んだ。都に本物の王太子の顔を知る人はいなかったから、兄さんの代わりに僕が王位を継いだんだ」  まったく器じゃないのになと、小さな声には自嘲の響きが含まれている。 「父王の葬儀のあと、兄さんがこっそり僕に会いにきて謝ってくれたよ。自分が愛をとったせいで、おまえに重荷を押しつけることになった。すまないと……」 「愛だと?」  レオンハルトは唇を噛む。  なんて愚かな。  父も弟も、まやかしのような愛に翻弄されて、一体何を得たというのだ。

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