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裏切り(3)
ダグのベルトをつかんで精一杯押しながら、漏れるのは呻き声のみ。
だが、懐に入ったことが功を奏した。
この体勢ではダグは剣を振るえない。
あとはバランスを崩させることができれば。
一瞬でよい。
こいつが体勢を失ったらヴィルターの手をつかんで部屋から逃げ出す。
もちろんダグの部下、あるいは王宮の兵士らが行く手を阻むだろう。
だが、ここは二階だ。
いざとなれば、多少の怪我は覚悟のうえで窓から飛び降りたってかまわない。
馬に飛び乗り街を駆け、森へ逃げ込むことができれば追っ手は撒けるはずだ。
「ヴィル、扉を開けろ!」
退路を確保するという意図を、しかし親友は汲んではくれなかった。
じりじりと距離をとり、こちらを伺っている。
手にしているのは頼りない燭台だ。
「ヴィル、お前には無理だ。早く……」
──早く逃げ道を、という叫びは空しく響くだけ。
「レオから離れろ!」
武器を振りかざし、ヴィルターが駆け寄る。
同時にダグの右手が跳ね上がった。
その手には剣。狙いはヴィルターの心臓だ。
「させるか……っ!」
ダグの腕をつかむレオンハルト。
両者はもつれあい倒れ込む。
黒鎧が床を叩く残響が天蓋を打った。
「つっ……!」
全身に受けた衝撃に、しかしレオンハルトは瞬時に跳ね起きる。
ダグの身体を下敷きに倒れたため、身体に痛みはない。
どこかに小さな怪我をしているかもしれないが、手も足も問題なく動く。
うずくまる親友の腕をつかんだ。
今のうちに逃げるんだ。
「レオ……」
異変に気付いたのはそのときだ。
ヴィルターの様子がおかしい。
燭台は床に転がり、彼の手は己の腹を押さえている。
指の間から嫌な赤色が滲み漏れていた。
「ヴィル、怪我を……」
「うっ、大丈夫だ」
もつれ倒れ込んだとき、ダグの剣がヴィルターの腹を抉ったのか。
「お、おれに構わず逃げろ、レオ」
「馬鹿を言うな」
繋いだ手が小刻みに揺れている。
いや、震えているのは自分の手か?
父と弟の死を彩った血の緋(あか)。
もうこの色は見たくないのに。
「はぁ、はぁ……」
小さく何度も息を吐いて、それからレオンハルトはヴィルターの腕を握りしめた。
強引に立ち上がらせ、横から抱える。
「ゆっくりでいい。行くぞ」
ダグはぴくりとも動かない。
背から倒れ込んだときに後頭部を打ったのか。
昏倒しているようだ。
王の寝室でこれだけの騒ぎが起こったにもかかわらず誰も来ないのも変だ。
来るときに感じたように、王宮には本当に人が少ないのかもしれない。
王が退位を口にしたことで、護衛集団《王の影》はおろか、召使らも暇をだされたのだろうか。
何であれ、この状況は幸いといえよう。
窓を割って飛び降りることもなく、王宮を出ることができたのだから。
「ヴィル、少し我慢していろ」
まずはここから逃げるのが先決だ。
安全なところまで逃げのびることができれば、きちんと止血を行う。
上着で強く腹を押さえるよう告げ、馬に乗せたところでヴィルターが囁いた。
レオ、ごめん──。
「レオを傷つけた奴を許せなかったんだ。王のことを考えたら血管が沸騰しそうになって。それで……」
「もういい。何も喋るな」
馬の揺れは怪我人には酷であろう。
傷口を押さえる上着が血を吸って徐々に重くなっていくのが分かる。
気付けばヴィルターの額は色を失っていた。
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