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裏切り(7)

「なぁ、ヴィル。ちゃんと俺を見てくれ。いつもの優しいお前に戻ってくれ」 「何言ってるんだ、レオ」  呆れたような微笑が漏れる。 「おれは昔からずっとこうだ。君がこの手に堕ちてくるのを、何年もじっと待ってたんだ」 「………………」  かける言葉など思いつかなかった。  せめて触れることで感情を伝えたいと寄せる唇も、ヴィルターに逸らされてしまう。 「このままだとおれは君のことを傷つけてしまう。怪我をさせて、縛り付けてでも側に置きたいと思ってしまう」 「そ、そんなことをしなくても俺はお前のそばにいるよ」 「ずっと?」という言葉に、レオンハルトは小刻みに頷いてみせた。  嘘だと、ヴィルターの失笑。 「君はいつか離れていくよ。だって、よく考えて。弟が死んだのはおれのせいだって思ってるだろ」 「そ、それは……」  ポトリ──。  エドガーの首から垂れる血の色が、脳裏に蘇った。  レオンハルトの顔色が変わったことに、ヴィルターは自嘲気味な笑みをこぼす。 「いつか離れていってしまうなら、いっそレオの手でおれを殺してほしいくらいだよ」  でも、君にはそんなことできないよね──。  ゆっくりと近付く手を見つめ、レオンハルトは無意識に身を引いていた。 「でも、おれにはできるんだよ」  問答無用で伸ばされた手がレオンハルトの首をつかむ。  あまりの冷たさにピクリと全身が震えた。 「もしこの先、レオがおれから離れてほかの誰かと笑いあったり抱きあったりするなんて耐えられない。それならいっそ、レオを殺しておれも……」 「ヴィル、やめ……」  ゆっくりと首が圧迫されていく。  ヴィルターの手に力が込められているのだ。 「うっ……」  勢いをつけて寝台に押し倒され、レオンハルトの呻き声は次第に掠れていった。  胸にヴィルターの身体がずしりと圧し掛かり、身動きがとれない。  目の前にはいつもの緋色が──いや、これはヴィルターの執着の眼差しか? 「ヴィ、ル……」  このまま緋色の闇に囚われて死んでいくのだろうか。  それがたくさんの人を傷つけた自分に相応しい末路なのだろうか。 「一緒に生きられないなら一緒に死ぬしかないだろ。な、レオ」  微かな抵抗を示すように動いていた手から、徐々に力が抜けていく。  そっと瞼を閉じたそのとき。部屋の扉が開け放たれた。 「兄様、何をしているの!」  遠くで聞こえるシンシアの声に、レオンハルトの意識が覚醒する。  同時にヴィルターが寝台の上で身を起こした。 「シンシア、来るな……」  喉を圧迫されて掠れた声が、彼女の耳に届いたかどうか。  顔色を変えて走り寄ってくるシンシアめがけヴィルターが拳を突きだした。 「あっ」  暴力に慣れてなどいるはずのない令嬢に、避けるすべはない。  まともに喰らって後方へよろめいた。 「シンシアっ!」  悲鳴はレオンハルトのものだ。  語尾が宙に消える直前、ゴツッと重い音が部屋に響いた。  シンシアが昏倒したのだ。  ヴィルターを突き飛ばし、レオンハルトが彼女に駆け寄る。  抱え起こし名を呼ぶと、微かな反応が返った。  しかし目の焦点は合ってはいない。 「死んだか?」  ヴィルターがこちらを見やった。  あまりに冷たいその声に、レオンハルトは顔をあげる。  信じられないというように表情を歪めた。 「シンシアが死ぬわけな……死なせるわけないだろ」  咳込みながらもレオンハルトは立ち上がる。  どこへ行くとの言葉に、振り返った瑠璃色の眸は怒りに燃えていた。 「医者を連れてくるんだ。妹だろ。それまでシンシアをちゃんとみていろ」  部屋を出る直前、レオンハルトは振り返る。 「レオ……」  ヴィルターの指先が震えている。  伸ばされた手を、レオンハルトは叩き落とした。 「俺に触るな!」 「……そうだね、レオ」  レオンハルトが最後に見たのは、ヴィルターの歪んだ口元だった。  きっと笑ったつもりだったのだろう。  しかし笑みも、そしてその思いもレオンハルトには伝わらない。  街の医師をつれて戻ったとき、ヴィルターの姿はもうそこになかった。

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