90 / 94

守りたいものは(10)

「レオ……」  ヴィルターの声は震えている。  絡み合った視線は濡れていた。  一歩、二歩。  レオンハルトの元へ歩み寄る。 「ヴィル、あぶな……っ!」  一瞬の隙をつくように、ヴィルターに黒い影が迫る。  短刀を持つ手がぶれたことを、ダグは見逃さなかった。  踏み込む足に体重を乗せて。  狙いはヴィルターの心臓だ。  躊躇などない。  一瞬の後、飛び散る血液。  悲鳴はヴィルターのものだ。 「……ヴィル、無事か?」  レオンハルトの押し殺した声。  下草に滴が垂れ、湖へポトリポトリと流れていく。  青の上着の袖が裂け、赤い筋が垂れていた。  ヴィルターを狙うダグの剣、その手元を払いのけた際に上腕を大きく裂かれたのだ。  しとどに流れ落ちる血液にヴィルターが切羽詰まった声をあげるが、レオンハルトは彼を視線で制する。  剣を握り直す黒衣に向き直った。 「もう止めろ。ルーカスは本気で王位を退く気だ。《王の影》も解散させたと言っていた。お前が王のためにこいつを殺す理由はもうない」 「関係ないっ! 自分はあの方のために……っ」  ダグの叫び。  同時に凄まじい速さで剣戟が繰り出される。  後方にのけぞり、左右に身をよじり、時に薄皮一枚裂かれながらも何とか躱す。  このときレオンハルトが眸を見開き、ヴィルターが息を呑んだのは、ダグの攻撃が徐々に苛烈さを失っていったという理由ではなかった。  二人の視線は《王の影》の長の口元に注がれていた。  大剣を構え、全身を黒衣に包んだその人物の声を初めて聴いたのだ。  細く高いその声。 「お前……女だったのか」 「だ、だから何だ!」  迫る刃の切っ先は勢いを取り戻した。  背が高く筋肉質な体格と全身を包む黒鎧から、ダグが女性だとは気付かなかった。  しかし驚いたのは一瞬のこと。  性別など関係ない。  目の前の人物はレオンハルトよりも、ヴィルターよりも、ずっと腕のたつ剣士なのだ。 「ルーカスは知っているのか……?」  彼女の攻撃範囲から身を引いて、レオンハルトはヴィルターの手から短刀を奪った。  お前は早く逃げろと親友の背を押すが、ヴィルターが動く気配はない。 「この女……まさか、王を愛しているのか? 側にいるために護衛隊に入ったのか?」  性別を偽って王の護衛部隊に入り、腕が立ったものだから長にまで上り詰めたというのか。 「ち、違うっ!」  ヴィルターの独り言に、ダグが侮蔑の表情を向ける。 「愛だと? 誰も彼もがそんな薄っぺらい感情で動くと思うな」  ルーカス自身、護衛隊長が女であると気付いてはいないのだろう。  彼は兄フレデリクへの報われない想いを未だ胸にしまい続けている哀しい人だ。  側で自分を見守る存在になど気付く由もない。  女を愛することのないルーカスの側にいるために、彼の護衛として仕える道を選んだのなら、この女もまた哀しい存在だ。

ともだちにシェアしよう!