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2-2ナンファンの三兄弟
数日ぶりに得た深い眠りから覚め、オーミアは十数秒ほどぼんやりと夢の記憶をたどり、それから小さく呻いて枕に顔を埋めた。
夕べはヒートに浮かされたとはいえ恋人へ軽率な手紙を送ってしまった。
笑って流してほしかった。いや、今そう思うだけだ。
返信が枕の下に届いた昨夜は胸の中が跳ね上がる心地だった。
映像魔法が使えない詫び文が添えられた音声魔法から、オーミアの体を気遣う優しい声が聞こえた。
『好き』と何度も伝えられて熱に苛まれる体がますます疼いた。
『この先は嫌だったら聞かないで』とグァンランは前置きした後少し黙ってから、囁いた。
『この手紙を受け取った今はまだ体が熱いまだろうか。もしそうなら、一緒に』
枕に顔を埋めながら夕べのそのような出来事を思い出し、記憶の何処かから夢を見ていた可能性は無いかを探る。
だが体………特に下半身のだるさと後孔に残る違和感が、どの記憶もほぼ現実であることを物語っていた。
済ませた後に窓を開け冠水瓶の水で指を清めた記憶もあった。
現に今寝台の横に置いてある瓶の水は減っている。
指に感じた感触も、内部が感じた痛みと痺れも覚えている。
この体で何度もヒートを迎えてきたものの、実は彼は後ろを慰めた経験がなかった。
通常の男性が行うもっとも一般的なやり方なら知っているのだが、変なところで生真面目な性格ゆえか、子を授かるほうの性器は無闇にいたずらしてはいけないと何となく思っていて、そちらの方はまったく未開発だった。
最初はグァンラン本人に触れて欲しかった場所を自分で犯した後ろめたさや、気恥ずかしさを暫しかみしめた後、オーミアは自分の体の火照りが収まっている事に気が付いた。
ヒートの期間がようやく終わったようだ。
偶然のタイミングと妄想とはいえ、グァンランと契った結果ヒートが収まったような気がして、オーミアはほう、とため息をついた。
まだ重たく感じる体を起こし毎朝の習慣である換気をする。
身支度を整えた頃、部屋の戸が軽く叩かれた。
「お入り」
食事を持ってきた使用人だろうと入室の許可を告げる。
が、入っていたのは次弟のロカロだった。
オーミアとよく似た質感の髪を流行りの留め具で結っている。
気が強そうな形の草色の目は、兄の頭から爪先までを睨め回してから微笑んだ。
朝食が載った盆を手にしているので、話があるついでなどと理由をつけて使用人から取り上げたのだろう。
「おはようございます兄上。今日のお加減はいかがです?」
兄を気遣う言葉だが、声にも微笑みにも蔑みがこもっている。彼は食事を兄の机の上に置くと、衣の袖口を一瞬鼻と口に当てかけ、すぐに何もなかったように下ろした。
それに気が付かないふりをして、オーミアは微笑みを返す。
「ありがとうロカロ。おかげさまでこの通り寝込んではいない。何か用事が?」
「いえいえ。特に用は。ほら今回は………アレの期間が随分長引いている様子なので。お見舞いに」
ロカロの言い回しにオーミアは苦笑いした。
「『アレ』と言うとき別に声をひそめなくとも良い。ヒートの事はここにいる皆が知っているんだからな」
「いけませんよ、わざわざ言葉になさいますな。どこで誰が聞き耳を立てていることやら。どんな一言も都合よく取り上げ広められては一大事です」
周囲に目を巡らせ、ロカロは開いている窓をみて大袈裟に首を振った。
「窓もお閉めになったほうがよろしい。お気づきで無いでしょうが兄上は稀にみる最上等、最上質なΩなのですよ。私のようなだだのβにも兄上の香りを少し感じてしまうくらいなのですから、外を護る兵が良からぬ気を起こすやもしれないでしょう」
「うちの兵にαはいないと記憶している。いたとしても私の近くに配置はしない。それにどんなαのフェロモンであってもβには………」
「この身が情けない限りですよ」
ロカロはオーミアの返事を遮る形で言いながら窓を閉めた。
「体はβとはいえ、兄上に無理な公務を強いなくとも良いほどの知識は蓄えたつもりです。私がαだったら誰も文句を言うことはなかったろうに。今すぐにでも兄上をΩとして相応しい生き方へ解放して差し上げられるのに。ああ………兄上、もしお体が辛いときはどうぞ躊躇わずに私を公務へお呼びください。私はどのようなこともお助けできますから」
これ以上何か言おうとしてもまた言葉を被せられると予想し、オーミアは仕方なく、
「ああ、困ったときは頼む」
と頷いた。
控えめに戸が叩かれたのはその後だった。
顔をのぞかせたのは末弟の青年、ジアルだった。
「何の用だ」
部屋の主が聞く前に、ロカロが苦々しい顔になって問う。
ジアルは眼鏡の奥の葡萄色の瞳を興味深そうにロカロへ向けた後、オーミアに数冊の本を見せた。
「気が紛れるかと、城下で人気の謎解き物語や情報誌を見繕ってきたのですが」
弟の気遣いにオーミアはおや、と笑って彼から本を受け取った。
「ありがたい。丁度字が読みたいと思っていた所だ」
そしてジアルの後ろに控えている少年にも目を留める。
彼は事情があって最近ジアルの小姓となった者だ。
この辺にはない明るい茶髪と黒い瞳を持つ少年だった。
にこりともしない。不貞腐れているようにも見える。
「めずらしく兄弟揃ったし、お茶会でも始めるか。君もお入り」
オーミアがジアルと少年に声を掛けると、ロカロは小さく鼻で笑った。
「私はこのあと用事がございますので。兄上も妾腹などに過分な情をおかけにならぬほうがよろしいかと」
軽く会釈し、末弟などそこに存在しないような態度で出ていったロカロを見送ってから、兄と弟はどちらからとも無く、ふふ………と呆れ笑いを漏らした。
「私の今のフェロモンは、βのロカロにも匂うほど強いそうだよ」
ジアルは頷いた。
「入る頃合いをつかめず、失礼ながら部屋の外で聞いていました。………平気な顔でαの僕がやってきてしまっては、意地悪なことを言ったロカロ兄上は気まずかったでしょうね。改めまして兄上、お体が落ち着いて何よりです。そろそろかと伺ったのですが、夕べですか?」
「ありがとう。今朝方やっと落ち着いたよ。………それにしても、ロカロの性格の悪さはともかく、あの迂闊さがどうにかならないと公務を任せるのは不安だな。迂闊すぎて、見放すどころか心配になってしまうのが厄介だ」
ため息をつく兄をみて、ジアルは薄く微笑んだ。
ロカロもオーミアも緩やかな曲線の長い髪。
真っ直ぐでさらりとした己の髪に、ジアルはやはり自分は彼らと一つ分遠い場所にいると感じた。
「実の御兄弟とはそういうものなのでしょう。………実は兄上、今日は本のほかにご相談したいことが」
ジアルが言うと、オーミアは頷いた。
小姓の少年を一瞥して、少し声を落として尋ねた。
「この子は例の?」
「ええ、まあ。まさか呼べるとは思わなかったのですが。神官たちにひどく叱られてしまいました」
ジアルは掴みどころ無く笑って頭を掻いた。
三月ほど前、彼は独学で作り出した魔法陣で異世界からこの少年を召喚してしまったのだ。
シャルシパで召喚の儀が行われたことは一応口外されておらず、ジアルの行動は完全に彼個人の思いつきと興味からであった。
世界の危機でも国の危機でもない、何の用もなく呼び出された少年は、特に優れた能力は持っていなかった。
異世界召喚者特有の、元から持つ力の値が少し上がる事と、この世界での一般的な人間が持つより少し高い魔法力を得た以外は本当に何もない平凡な少年だ。
その後ジアルと少年は神官たちに軟禁され取り調べられたり、それが終わったと思うと次はオーミアがヒートで外に出られなくなったりなどして、騒ぎ以後、この三人が顔を合わせたのは今日が初めてだった。
「フジタシシオ。フジタが姓でシシオが名前です。僕はシシと呼んでいますが」
ジアルに促され、シシオは無表情のままオーミアに軽く頭を下げた。
「………っす」
十五、六くらいに見える少年は、よく見ると顔や手などに幾つも薄い傷跡があり、片耳の端もギザギザになっていた。
元は耳飾りを通す為に開けた穴のようだ。耳飾りごと引きちぎられた過去があるらしい。元の世界が物騒だったか、本人がやんちゃであったことがうかがえる。
「最初は暴れるばかりで挨拶もできなくて、だからこれでもかなり良い子になったんですよ」
ニコニコ微笑むジアルの横顔をシシオが恐ろしい目で睨んだ。
シシオの左手の甲にはジアルの紋章が刻まれていた。
これがある限り彼はジアルには逆らえない。
挨拶できるようになったのも今舌打ちしなかったのも、紋章魔法で何度も仕置きされ躾けられたからだろう。
「この子のことはどうするつもりなんだ?そろそろなんだろう」
オーミアが心配するのは、シシオがこの世界にきてもうすぐ三ヶ月たつということだった。
神殿での取り調べや検査で、シシオはΩであることが分かっていた。
Ωの二次性徴は十代の中頃から見え始めるのが共通認識なので、彼の体がこの世界にちゃんと順応しているならば、早い場合そろそろヒートが始まってもおかしくない。
オーミアの言葉にシシオはピクリと肩を震わせた。
「呼び出した責任は取るつもりです。兆候が見えたら制御魔法を使って、症状が軽いうちに薬を手に入れるつもりですが……それについての相談なのです。兄上、予備の薬などはございますか?」
「いや、すまない。今回の分は使い切ってしまった。次のが早く届くよう手配するよ」
ジアルがこの様な相談をしてきたのは、まだ薬を手に入れる見通しが立っていないからだとオーミアは見当をつけた。
ナンファンは未だΩに対する待遇が行き届いていない。
優先順位はα男性で、α女性とβ男性が次。β女性がその次で、Ωはどちらの性別も全て後回しだった。
ヒートの制御剤も種類がなく、とても高価だった。
『高い費用をかけて薬を開発するよりも、Ωはαの為に発情し続け性的に主に尽くし子を産み、αは引き換えとして移住食を与えるのが互いに最も合理的である』
というのがこの国の神官や貴族、王族たちの方針であり、またこの国のΩはほぼ上記の考え方を持つ裕福層が『保護』しているため、薬の少さについて問題にされることは無かった。
第一皇子であるオーミアが使っているのも貴重なものだ。
妾の子であるジアルと役立たずの召喚者が独自に薬を得る手段はかなり厳しい。
「今回のヒートは長くて私の手持ちは使い尽くしてしまったんだ。手に入れたらすぐそちらに届ける」
オーミアがそう約束すると、ジアルは頷き、頭を下げた。
シシオもまだ険しい表情であったが、それでもジアルに習って同じようにした。
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