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三、香料
初対面であてられた俺も、偉そうなことは言えない。
外を歩いていて、窓辺に座っている槐さんと目が合い、そのままふらふら吸い寄せられる。この部屋に来たら、浴衣の槐さんがいて、ほとんど言葉も交わさないうちに、ベッドにもつれ込んでしまう。
浴衣の下には、何も着けていない。あの人の手が伸びてくる。
それに逆らえる男がいるとしたら、それは、不能なんだろう。
ここに来てから、今日で4日目。
その間に、槐さんはこの部屋で、すでに俺以外に何人かの男と寝ている。
ここに来るまでには、どれくらいの男を手玉に取って来たんだろう。
四つん這いになった今の槐さんは、浴衣を肩までずり下げて、俺に後ろから攻められている。
さっきまでベッドの上にいたのに、他の男に抱かれていたのに、今は畳の上で、俺の前で体を揺すられている。
「あっ、あっ、あう!」
初めて会った時より、大きな声が出るようになった。さっき開けた窓から聞こえたのより、少し高い。
浴衣の裾をまくり上げると、突き刺さっているのがよく見える。
「忠義 くん、ああ、恥ずかしいっ……」
槐さんが振り向いて、泣きそうな声で言ってきた。
呼び方は相変わらず間違っているが、ためらいとか、恥じらいとか、そういうのは、この人には無かったはずだ。
誰に教わったんだろう。
そう思うと、何だか下腹がじりじりした。性的な事とは違う意味で、強いて言えば腹が立った時に似ている。
華奢な腕を掴んで、うらでにひっつり上げる。槐さんはバランスを崩して、畳に顔を擦り付けた。
その体勢で、もっと深く、激しく突いた。
赤くなった肩越しに、綺麗な顔を苦しそうに歪めて、歯を食いしばって見てくる。
この人がいちばん生き生きした顔をするのは、こうして男に体を預けている時だ。
黒い目に光が入って、肌の血色もよくなって、ツヤが出る。髪も乱れさせて、うなじから汗を垂らしているのは、生きて、間違いなくそこにいる感じがする。
普段は外にも出ずに、汗なんかかかなさそうな顔をしている分、余計にだ。
最初に男を連れ込んでるのを見た時は、さすがに驚いた。この部屋に来た翌日の事だ。
槐さんは本当に右も左も分からなかったので、近所を散歩していたら道に迷ったらしい。
たまたまコンビニの前にいた男に声をかけたら、このアパートまで送り届けてくれた後、そのまま部屋に上がって来たという話だ。
その日は盆休みも終わった金曜日だったが、まだ俺の仕事は休みだった。
職場は、町工場という呼び方がふさわしい、小さな鉄工所。綾瀬の中央から西にかけて乱立する工場のうちのひとつだ。
会社名は、創業者の名字からそのまま、五十鈴 製作所。その名前の通り、鉄を加工して、色んな金属部品を作っている。
『ものづくりのまち』というコピーを付けられる前からあって、今の社長は創業者の息子だから、「二代目」と呼ばれている。
先代ははるか昔に引退していて、一昨年、亡くなった。
俺は一緒に働いた事はなかったが、葬式には当時の従業員一同で参列した。今回持って帰った喪服は、その時に買ったのだ。
その二代目の方針で、今年の連休は19日の日曜日までになっていた。
工場の大きい機械は1度火を落とすと少し厄介で、冷え切った燃料を再燃させたり、その分の微調整したりするのに時間と手間がかかる。
金曜日にそれをしたところで、どうせ土日はまた休みだから、もう10連休にしてしまえと。
俺は新居での荷解きや家具の組み立てを中断し、作業の息抜きを装って、アパートまで槐さんの様子を見に行った。
そんな義理も無かったのに。前の日は初めて男と寝たのが怖くなって、逃げるように帰ったくせに。
あわよくば2回目があるかも、なんて期待しながら。
その時点でハマっていると、気が付くべきだった。
今日と同じで、窓から喘ぎ声が聞こえていた。
最初は信じられなかった。そんなはずがない。耳を疑うというのはこういう事だ。
あちこちで厄介払いされてこの部屋に来たのに、たった1日で、そこまで深い関係になる相手がいるとは考えられなかった。
しかも俺はなぜか、この人が狂わせるのは血の繋がった男だけだと思い込んでいた。
名前も知らない、目が合っただけの男を部屋に上げて、股を開くような人だとは知らなかったから。
槐さんに覆いかぶさっていたのは、俺より年下で、俺よりもっとヤンキーという言葉の似合う男だった。
ブリーチした上から緑色を入れたような髪色で、耳にも細い眉毛にもピアスをしていた。背が低かったし、まだ大学生か高校生にも見えた。
俺は、槐さんが襲われたんだと思った。
強盗みたいにいきなり部屋に入ってきて、初めは金目当てだったが、この人を見て、色気に目が眩んだのだと。
気が付いた時にはサンダルのまま部屋に上がり、男を引きはがして、顔を殴っていた。
『てめえ! 何してやがんだ!』
明らかに体格が違うし、体重差もあるから、簡単にふっ飛んでいった。
若い男は当然驚いただろうが、顔を押さえて、
『そっちから誘って来たんだよ!』
とか何とか言った。
『だばっくれんな!』
思わず、消したはずの訛りが出てきた。
その後に何と言ったのかは思い出せない。かーちゃんやばーちゃんに聞かれたら大目玉を食らうような、すごく汚い言葉を使った気がする。
若い男はズボンを引き上げながら、よろよろ立ち上がった。改めて俺を見て、何かに気が付いたように、
『あ、ひょっとしてオニーサンたちコッチの人? そっちのオニーサン、アンタのコレなんだ』
ニヤニヤした顔と小指を立てたジェスチャーで言われた。
若いくせにオッサンみたいで、余計に腹が立った。
『言いだれこいてんじゃねーぞクソガキ!』
胸倉を掴んでくらし上げた。
普段は、こんな事は絶対にしない。ただその時は、槐さんを守れるのは俺しかいないと思ったから。
『次会ったらはたき殺してやっからな! 失せやがれ!』
廊下にまくり出し、玄関にあった靴も投げ付けて、戸と鍵を閉めてやった。
よく誤解されるが、俺は別に、ヤンキーや不良ではない。
むしろ高校まで無遅刻無欠席なくらいの健康優良児で、座学は寝て、体育では張り切る典型的な男子だった。
ただ、体がデカく、目付きが悪く、目立ちやすいのもあって、よくケンカはふっかけられていた。
それも、逃げたと言われてナメられたくないからやり返していただけで、自分からふっかけた事はない。
金髪にしたのも、大学に上がってからだ。
いわゆる大学デビューというやつで、これまで校則で禁止されていたから、親元を離れてハジケてみたくなっただけ。目立ってやろうという意識もなかった。
黒髪に戻すタイミングを逃し続け、4年生の時の就活もそれで通ってしまったので、そのまま30歳になったに過ぎない。
だから、まして30歳という大人になってこんな荒っぽい行動に出るとは、自分でも思わなかった。
頭に血が上って、我を忘れて、咄嗟に汚い言葉と手が出るような、危ない人間になってしまっていたと、後になって気が付いた。
向き直ると、槐さんは黙って俺の方を見ていた。
『大丈夫すか?』
どの口で言ったのか。俺もこの人の体に溺れたくせに、心配しているみたいに聞いた。
槐さんの目は焦点が合っていなかった。俺じゃなく、ぼんやり戸を見つめて、
『悪い事をした。私が誘ったのは本当なのに……』
と言った。
その瞬間、俺は早くも、この人のことを理解するのを諦めた。
話に聞いていたよりも、想像していたよりも、何倍も恐ろしいような、近付いてはいけない人だったと分かったのだ。
可哀想とか、あわよくばとか、軽々しく引き取ってはいけない。嫌われるのも無理はない。
この人は、親戚が口を揃えた通り、俺の家系を狂わせて、本当に破滅させていたかも知れない。そう感じた。
それでも、俺は槐さんに引き寄せられた。
他の男に抱かれているのを見て、昨日と同じかひょっとしたらそれ以上に、興奮してしまっていたから。だから腹も立ったし、アレも勃ってた。
『わざわざ何をしに来てくれたんだ。昨日は好きに使っていいと言ったじゃないか』
槐さんは衿や帯を直しながら言ってきた。もう、ぼーっとはしていなかった。
俺はベッドの前でに膝を突いて、
『き、昨日の事……』
それしか言えなかった。
『昨日?』
聞き返してきたあの人の目を見た時に思った。
この人は、男と寝ている間しか、生きている事を感じられないんじゃないか。
暗い目をした槐さんにキスして、窓も閉めずにおっ始めた。
あの人の目が光るのは、夏の強い直射日光のせいじゃない。
誰かに見られて、抱かれて、興奮するから。もっと相手のことを見ようと、切れ長の目を見開くから。
香典の薄墨みたいな色の瞳が、漆くらい濃い黒に変わる。髪と肌のコントラストが、白と黒の幕や喪服と同じ組み合わせが、走馬灯みたいな薄い色の浴衣からこぼれ出す。
不謹慎だが、俺がいちばん直近で経験した通夜と葬式、それがきっかけで出会った人は、人が死んだ時と同じ色をしていた。
線香でも焼香でもない、でも煙を使ったお香の匂いは、槐さんの髪だけじゃなくベッドにも染みついていた。
今度は、俺は逃げ帰らなかった。
ベッドの上で、お互いに汗まみれの裸になって、浴衣を絡めた細い体に抱きついたまま、頼んでいた。
月末まで2週間、毎日通って面倒を見るから、この部屋から出ないでほしいと。
とにかく槐さんに男を近付けたくなかった。今日みたいに窓辺に座ってるだけで男を吸い寄せるなんて、まだ考えもしなかった。
親族が縁を切りたがる理由を目の当たりにしたのに、俺はその色気に逆らえなかった。
あわよくば、自分だけの物にしたいとまで、都合よく想像していた。
俺が区切りを付ける頃には、夕方になっていた。
風呂場のドアは玄関の土間と繋がっていて、木戸と同時に開けられない位置にある。
槐さんが来る事が決まっていたから、シャンプーや石鹸は新居に持っていかずに置いていた。
こうなる事が決まっていたわけではないにしても、今のところ3日連続で、俺も使っているのはおかしな話だ。
汗を流した後のあの人は、さっきまでの乱れ具合は嘘みたいにさっぱりしている。
浴衣もきちんと着ているのを改めて見た。もり蕎麦のワサビみたいな淡い緑色に、濃い緑の帯の組み合わせだ。
ただ、どこかに残り香みたいなのはまだあって、浴衣から見えるすっきりしたうなじに吸い付いたり、裾をまくって白い脚を舐めたりしたくなる。
そうしたいのをガマンしながら、槐さんと2人でちゃぶ台を挟んで、もり蕎麦を食べた。
例のばーちゃんの息子夫婦は、槐さんにまとまった金を渡していた。
介護をしてくれていたからとか何とか理由を付けていたが、どう考えても手切れ金で、遺産相続の話にこの人の名前が出ると困るらしかった。
その受け取った金すら俺に預けてしまうこの人は、本当に、家の事しかできずに生きてきたようだ。
本人がそれでいいと言ったので、この家に来る時の買い出しはそこから出す事になっている。
面倒を見てくれているからと、俺が食べたい物を選んでいいし、ビールもタバコも買って構わないと言われた。引っ越しで金のなくなった俺にはラッキーな話だ。
なるべく無駄遣いはしないように、長年の自活で見つけた激安スーパーを回ろうとしたが、外はあんまりにも暑いし、コンビニも使うようになってしまった。
一人暮らしだと自炊の方が却って高くついて、俺は料理を早々にしなくなり、玄関から入ってすぐにある簡素な台所は、洗面台として使っていた。
風呂場にも洗面台はあるが、いちいち土間に下りて行くのも面倒だし、換気扇の効きも悪いから、使いたくなかった。
家事ができるらしい槐さんはどんな料理をするのか、いまだに聞けずにいる。
メシを作ってほしいと催促しているみたいに思えるし、そうなると、今の関係からさらに踏み込んでしまう気がしたから。
俺はベッドの方にあぐらで座って、槐さんは玄関に近い方に正座している。俺が上座なのが当たり前だと言うように、その人はそこに座っていた。
すぐに男と寝てしまうとか、下に何も着けていないとか、行動は品が悪いこと極まりないのだが、所作といい、言葉遣いといい、どうも今どきっぽくない。
簡単に言うと、育った環境が複雑な割には育ちが良いように思える。社会に出た事もないのに、大人の常識みたいな、礼儀を知っている雰囲気もある。それが不思議だ。
座る背筋もまっすぐで、箸の持ち方も綺麗だ。手が綺麗だからそう見えるだけかも知れないが。
蕎麦をすするのも、ズルズル音を立てずに食べている。上品ではあるが、味気ない食べ方だ。
何だか生気がなくて、人形と食事しているみたいに思える。
そうだ。この人は、笑わないのだ。
「槐さんて、こっから出たらどーすんの?」
これまで、あまり聞かなかった事を聞いた。
たった4日の間に、この人と何回寝たか分からない。
肌を合わせた分だけ、心の距離が近くなる。
大学生の頃、チャラかった先輩から聞いた話が、今になって信憑性を持ち始めていた。別れた元カノの和泉 とも、最後の方は確かにレスだったし。
「金持ちのおじさんの、色子 になる予定だよ」
映画から出てきたようなあの人が当たり前のように口にする言葉は、俺には馴染みが無かった。
「イロコ? 何すかそれ」
「食事中にする話じゃないが、江戸時代に陰間 茶屋 で色を売った少年の事だよ」
真顔で解説されて、口の中に入れていた蕎麦が鼻から出そうになった。
「ぶへっ! ぐふっ、げほげほ……」
派手にむせて、麦茶で流し込む拍子に、槐さんが眉間にシワを寄せているのが見えた。
行儀とか何とか言われるかと思ったが、淡々と説明を続けられる。
「もう三十路も越えていると言うのに、随分な言い方をされたものだ。囲われる愛人という意味かと聞いたら、女じゃないからと」
何とか飲み下して、胸を叩きながら聞き返す。
「……マジ? それ、うちの家族?」
そんな話が現実に、堂々とまかり通るなんて。しかも、自分の家族の中で交わされたなんて。信じられなかった。
「いいや、まったくの赤の他人だ。家族の誰かが口利きはしてくれたんだろうが」
当の本人は、何も不思議に思わず、現実として受け入れているらしい。
人生には、何が起こるか分からない。
例えば俺が、和泉と別れる気もなかった事もそうだ。
同棲して、金が貯まったらプロポーズするつもりだった。そこまで考えていたのにこういう結果になったのと同じで、この人は俺より長く、もっとおかしな人生を歩んで来ているんだろう。
だから、何があってももういちいち驚かない。
と言うか、感情の起伏自体、あまり無さそうだった。
「赤の他人とか……恐くねーんすか」
少し前までは俺とこの人も、名前も顔も知らない赤の他人同士だった。
でも、どこかで血が繋がっているから、少しは安心して一緒に居られるように思えてならない。
「どうだろう。会った事がないから、何とも言えないな」
やらしい事をしていない時の槐さんの声や話し方は、落ち着いている。
物静かで大人っぽいし、目が合っただけで男を狂わせて、一家を破滅させようとしたとは、考えられない。
「ただ……本多家にとっては喜ばしい事だ。厄介者をようやく追い出して、もう面倒を見なくて済むんだから」
槐さんは、他人事みたいに言う。
そんな風に思われているのが分かってしまうほど、家に居場所がないのに、家から出られない。どんな生活、人生だったのか、俺には想像もつかない。
いま俺の目の前にいる瞬間ですら、平成も終わるこのご時世に、江戸時代みたいな事をさせられそうになっているのに、平然としていられる人生とは。
見ていたら、槐さんと目が合った。やっぱり、少し霞のかかったような瞳をしている。
「私は見ての通り白痴 だから、難しい事は分からない。ただ、私がこの家や人様にとってお荷物だとは、昔から分かっているんだ」
「白痴って……」
言葉の意味をちゃんと知っているわけではない。
ただ、あまり人に言ってはいけない言葉な気がした。痴呆を認知症と言うようになったみたいに。
ビールの缶とプラゴミをまとめてコンビニ袋に入れたら、帰る予定だった。いつもそうしていた。
ただ、今日はまだ帰りたくなかった。
窓際に置いたベッドに足を置いて、窓枠に腰掛けて、タバコを吸う事にした。
この部屋に住んでいた時は、いつもそうしていた。
外にある柵の高さと幅がちょうどよくて、俺ぐらいの男が寄りかかっても落ちないし、景色を見るのにも邪魔にならない。
ベランダと呼べるほどではないが、上には物干し竿があって、洗濯物もここで干せた。
槐さんが、そうと知らずに俺と同じ体勢で外を見るようになったのも、浴衣を干す時にそれに気付いたからだろう。
別に見ても何か面白い物があるわけでもない、家賃相場の安い、閑静な住宅街だが、周りに高い建物が無いので見晴らしは良かった。
今のマンションには、室内洗濯機置場も、ベランダもある。景色も、もっと遠くまで見える。
でも、住宅街の一角にあるこの木造アパートは、俺にとって早くも懐かしさと少し物悲しい雰囲気を持ち始めていた。帰るべきなのに、帰りたくないような感覚になる。
これは住んでいた場所だからというだけじゃない、俺が物心つく前に終わった昭和という時代の哀愁なのかも知れない。
それに、取り壊しが決まった今になって、これまでと違う顔を見せた。槐さんという人が現れたせいで、急に情緒のある場所になったのだ。
エロいという一言では片付けられない。言ったとしても、エロチシズムだと思う。時代遅れで、なまめかしくて、下衆なのに、辛うじて上品さを残している感じ。
最近の言葉で言うと、エモい、になるだろうか。
槐さんはいつもはすんなり帰る俺が残っていても、ビールの空き缶を灰皿代わりにタバコを吸っても、気にしていない様子で、シーツと手拭いを洗ったり、文庫本を読んだりした。
窓辺にいる俺が見えていないみたいに、すぐ目の前に来て、身を乗り出してシーツを干していく。
体勢が2本足で立つ不安定な猫みたいで、柵はあっても落ちるんじゃないかと、一瞬、手を出しそうになった。
無事に干して部屋に引っ込む時は体の動きがしなやかで、無防備で、やっぱり猫みたいだった。
そのあと、畳にもスペースはあるのに、シーツを剥がしたベッドにうつ伏せに寝転がってきた。窓枠に座っている俺の足に、腿が当たるほどの距離まで。
むりとやっているのか、無意識なのか分からないのが、この人の隙だ。
夕日に染まる後ろ姿だけで、俺はまた誘われている気分になる。背中、腰、尻と、なぞりたくなる。
華奢に見えても、骨格は間違いなく男だ。小顔だとばかり思っていたが、肩幅とのバランスも取れている。
そのくせ、帯で締め付けているからか、浴衣がぴったりと体に沿っていて、尻の形が浮き上がっていた。男にしては肉のついた尻だと思う。
タバコを吸いながら、じっくり舐めるように見てしまった。
何も持っていない手を膝の上で握りしめて聞いた。
「本、好きなんすか?」
文字が小さいし、頭の陰になってどんな本かは分からない。何より、うなじに目が行ってしまう。
「書痴 と呼ばれた事もあるが、別に好きというわけじゃない。他にする事がないだけで」
槐さんは俺の方を見ずに答えた。
この人の普段の、ここに来るまでの生活も、俺は知らない。
テレビも、ネット環境も外してしまったこの部屋に閉じ込めているのは、申し訳ないと思う。暇潰しに男を連れ込んでいるなら、それは仕方ないのだろうか。
「槐さんて、普段は何してるんすか。その……男と寝る以外で」
「何だ。今日はずいぶん色々と質問してくるな」
片肘を突いて俺の方を向く。姿勢を起こした拍子に、たわんでいた浴衣の前がはだけた。
顔を見て話すべきでも、そっちに目が行ってしまう。
巨乳ならまだしも、薄く肉が乗っただけの生っ白い胸に、どうしてここまで興奮するのか自分でも分からない。
俺も他の男と同じで、すっかりこの人に狂っているのが分かるだけだ。
幸か不幸か、止めてくれる家族はいない。
葬式から帰る車中で、かーちゃんが心配して来たくらいだ。嫁という立場もあり、親戚の前では俺を止められなかったのだろう。
部屋を貸すだけだし、2週間の付き合いでしかない。独身用の物件に引っ越せばフラれた虚しさが襲って来そうだから、何か別の事で気を紛らわせられれば。
そう呑気に構えていたのが懐かしい。
オヤジは運転しながら、見てみたいもんだと笑っていた。
同県に暮らす親戚筋とは言え、信州は広い。槐さんのことは、話に聞く程度だったのかも知れない。
今の俺を、親が見たら泣くだろうな。
でも、そんなの今は、どうだっていい。
タバコを消して、部屋の中に体を戻した。
「槐さん」
ベッドに正座し、隙だらけの手を握る。すべすべした感触で、少し冷たい。
「俺、槐さんのこと忘れねーから」
「何を言い出すんだ、突然」
槐さんは困った顔で聞き返してくる。
親類縁者をたらい回しにされたこの人にとっては、男に押し倒されるのと同じで、別れなんて慣れっこなのかも知れない。
それでも、言わずにはいられなかった。
今すぐに離れるわけじゃない。けど、金持ちのオジサンの所に行くのが決まっていると聞いた時から、言わなければと思っていた。
それで、帰りたくなかったのだ。この気持ちを伝えるまでは。
「もう聞き飽きてるだろーけど、やっぱ俺も、槐さんに惚れてる。皆がそうだったみたいに、俺の物にしたかった」
これは、恋なんて生ぬるい感情じゃない。でも、劣情みたいに、下衆な欲望だけでもない。
これまで生きてきて味わった事のない、誰かに狂うという感覚が、俺の中に生まれてしまっていた。
この人を自分だけの物したい。誰にも渡したくない。触らせたくない。
「でも、槐さんにはいつも男が寄ってくるだろ。こんな場所に閉じ込められてても、目が合っただけで……。愛人みたいにしたくても、今の俺に、そんな余裕もねーし」
実際の俺は、それができない理由をたらたら垂れる事しかできなかった。心の中にどれだけ強い感情があっても、目に見える形で示せなければ意味がないのに。
和泉と別れた理由は、経済的な問題だった。
俺は結婚しても共働きでいるつもりで、和泉は仕事を辞めたがってた。俺の稼ぎじゃ2人分の生活は賄えないと説明したら、甲斐性が無いとフラれてしまった。
平成も終わるこのご時世に、そんな理由でフラれたのだ。
付き合っている時から分かってはいたんだろうが、同棲の話が出て、現実的に考え直した結果だ。
「……申し訳ないが、忠義くんが何を言っているかが、まったく見えて来ない」
俺に向かい合うように座った槐さんは、困って眉根を寄せながら、俺に握られた手を見ていた。
「本当は槐さんを俺の物にしてーけど、無理って言ったんすよ」
説明しても、表情は変わらない。首をすくめ、前髪の影が落ちた暗い目で見上げてくる。
「私のことが好きで、今まさに手にできているのに? それ以外何を望む事がある」
こんなに伝わらないものなのか。
俺はこの人に、自分も同じ気持ちだと、言って欲しいのかも知れない。
オジサンの愛人なんかになるのはやめて、どうにかして俺だけの物になってくれはしないかと。
そしてあわよくばこの人にも、俺に狂ってみてほしい。
今みたいに、ただ見境なく男に狂うんじゃなく、俺という男だけに狂って、俺がいなければ生きていけないようになればいいのに。
実現できないと分かっていても、考えるつもりはなくとも、期待していたのだ。
どうせ、人生そんなに上手くいくものじゃない。
俺が槐さんを理解できないように、槐さんも俺を理解できなさそうだった。
握っていた手を離して、下を向いて聞いた。
「槐さんは……何か望みとか、ねーんすか」
もし望みがあって、それが叶わない感覚が分かるなら、今の俺の気持ちも少しは理解してもらえるんじゃないか。
ただ、何を言われようと、それを叶える力も、俺にはない。悔しいが、人ひとりまともに守る事も、養う事も難しいのが俺の現状だ。
「思い付かないな。こうして生かされているだけで充分だ。それに今は、私を見てくれる相手もいるしな」
あの人は、自分の胸に手を当ててそう答えた。
槐さんに背を向けて、ベッドから足を下ろして座った。どうすればいいのか分からなかった。
「帰らなくていいのか?」
「……別に」
聞かれて短く答えると、後ろから槐さんの腕が回ってきた。背中から脇腹に、それから前に。
「誰かと一緒にいると、誘いたくなってしまう」
槐さんは恥ずかしげもなく言って、俺の背中に寄り掛かり、薄いハーパン越しに探ってきた。
少し硬くなり始めているモノが、俺の腰の後ろに当たる。相変わらず、下着はつけていないらしい。
もし、仮に、これを自分が入れられると想像すると、どうにも嫌な感じがする。いくら槐さんが相手だとしても。
初対面の相手でも遠慮なく受け入れてしまう、この人のことは理解できないと、改めて痛感する。
そんな理解できない相手から触られて、逃げられなくなっていく。
力の差を考えても、振りほどこうと思えばいつでもできる。そのまま走って、マンションに帰って、二度とここに来なければいいだけだ。
分かっているのに、できない。そうしたいと思えない。
それよりもっと、他の事で頭がいっぱいになる。
「……それって、俺じゃなくてもいいんだよな」
こんな事しか考えられない自分が情けなくて、目元を隠すように押さえて聞いた。
ぴったりと背中に寄り添った槐さんは、手の動きも止めない。
「そうだな。男であれば誰でもいい」
それを聞いて、どうしても腹が立った。
抱きついてくる腕の中で体をひねって向き直り、浴衣に包まれた両肩を掴んだ。
「こういう時に、俺じゃなきゃダメって言ってほしいんだよ!」
姿勢を起こさせて、少し遠ざけるように、目を見て言った。
槐さんはきょとんとして見返してくる。
「どうして? 嘘を吐かれてもいいのか?」
口では屈辱的なくらいのことを言いながら、表情で誘ってくる。
遠ざけたいこの人の目が、肌が、匂いが、すぐ近くまで、俺を迎えにくる。
どっちを信じたらいいのかわからなくなる。
そんな事をされたら、俺はますます狂ってしまう。
「……ああ、クソッ、やっぱダメだ」
キスして、押し倒す。まんまと誘いに乗ってしまった。
ついさっきしたばっかりなのに。腹が立つ以上に自分を抑えられない。耐えられないし、逆らえない。
反応している体よりも、心が苦しい感じさえした。
他の男には、俺の気持ちなんか分かりっこない。
血も繋がっていない、どこの誰だか知らない金持ちのオジサンに、こんなに想っている槐さんを取られる気持ちなんか。
「槐さんが居なくなったら俺、どうやって生きて行こう……」
槐さんの上に四つん這いで覆いかぶさって、思わず言ってしまった。誰かに向かってこんな台詞を吐くとは思いもしなかった。
たった4日で、こんなに夢中になるなんておかしい。相手は年上の、普段何をしているかも知らない、血の繋がった、男なのに。
自分を忘れるほど引き寄せられて、この人の中に呑み込まれて、出られなくなっていた。
槐さんが、俺の頬に手を滑らせてきた。
「私を抱いた男は皆そう言うんだ」
何も言い返せなかった。
俺が槐さんに狂っても、槐さんにとっては、俺も狂わせてきた大勢の男の中の1人でしかない。
「安心していい。今はそう言っても、私と縁を切って半年もすれば、普通に生きられるようになる」
他人事みたいにそう教えてくる。
その下の細長い首を、絞めてやりたくなった。
この感情を、憎いというのかも知れない。
半年も焦がされるのは長いし、かと言って、このじりじりする感覚を、いつかは忘れていくと言うのも、それはそれでつらい。
もしかしたら、半年の間に、普通に生きているフリができるようになるだけで、槐さんのことは心の中で死ぬまで思い出すんじゃないだろうか。それを本人や周りが気付かないだけで。
こぶしを握り締めて耐えていると、槐さんの方が、俺の唇に触ってきた。
差し入れられるまま、親指を舐める。ひんやりしているだけで、味はほとんどしなかった。
ちゅく、ちゅく、という音が頭蓋骨に響く。俺が、槐さんの指をしゃぶる音。
「忠義 くんは、まだ楽な方だ」
その隙間に、槐さんの声が聞こえる。
「私にかまけたところで、失う物は少ないだろう?」
「……ん」
まっすぐ目を見つめ合って、親指をしゃぶったまま、頷くしかなかった。
舌の少し奥を押されて吐きそうになっても、やめられなかった。
俺の口に、槐さんの指が入ってしまった。嫌な気分はこれっぽっちもしない。
それが恐かった。徐々に慣らされている気がして。
それから槐さんは脚を持ち上げて、ちゃんと俺にも入れさせてくれた。
けど、動かしたくても、もうできなかった。勃ってはいても、出そうな感じがしない。
もう若くない。1日に3回でも4回でも1人でしていたのは中学生の頃の話で、あれから倍の年を取っている。
自分のムスコながら、よく保っていられるなと感心するくらいだ。
だから、向き合って腰を叩き付ける代わりに、挿入はしたまま、後ろからぴったりくっ付いて体に触る事にした。
日が暮れていたから、蛍光灯を点けて。シーツを干しているとは言え、外から見えないように畳に下りて、自分の上に、背中を向けて座らせる体勢で。
見えないけど、槐さんの体の前面に手を回して、右手で乳首を転がしながら、左手で内腿や脚の付け根や腰を撫でる。
いちばん弱い、男が触ってほしがる部分に手を伸ばす度胸は、まだ無かった。
「あ、あ、あ」
俺に背中を預け、天井を見上げて、槐さんは息を上げた。時々、声も上げた。
蛍光灯の光が槐さんの頭の陰になる。後頭部を見上げながら聞いた。
「槐さんってさ、何で槐なの?」
すると、槐さんが体をひねって見てきた。
「シェイクスピアの、真似事か? それとも、名前の由来を聞いているのか……」
俺より少し高い位置に顔があって、見下ろされる形。逆光になって表情が見えづらい。
「そう。そもそも、本名?」
聞きながら、手の動きを変える。両手を使って、左右の乳首を指の腹でこねくり回して、人差し指と中指でつまんでひっぱった。
「き、決まってるじゃないか……私が産まれた、家の庭に、うっ、植えられていた。そこから、取ったんだ……」
はあはあ喘ぎながら、途切れがちに答えてくれた。
ぷくっと勃ってきたのが、見なくても分かる。それを、指で強めに弾いて聞いた。
「花の名前ってこと?」
「く、うっ!」
声を上げた槐さんが俺の腿を掴んで、爪を立ててきた。いたずらして、叱られているみたいだ。
俺も仕返しみたいに、薄い肉を鷲掴みにして揉んだ。浴衣の肩が縮こまって、ふーっ、ふーっ、と荒い息をするのが聞こえる。
「どちらかと言えば……木の名前というべきだろうな。ミモザや、アカシア……」
説明しながら、ついに自分で腰を揺らしたり、尻を擦り付けたりし始める。俺がずっと動かないから、もどかしくなってしまったらしい。
前にあるちゃぶ台に肘を突いて、前屈みに頭を落としたせいで、うなじががっつり見える。
綺麗な背中を見せびらかすように、浴衣を下ろしてきた。
そうやってまた乱れてきた浴衣ごと、細い体を腕に抱いて、背中に唇を付ける。
「なんか、女の名前みてえ」
言ってから、背骨の窪みに沿って舐め上げる。汗で塩辛いような、親指よりも濃い味がした。
食いしばった歯の間から、吐息と一緒に声が漏れるのが聞こえる。
「ふっ……うぅっ」
ぞわぞわと背筋が伸びて、腕の中の体がびくびく反応する。うなじや肩が赤くなっていくのが見えた。
前屈みになった槐さんはちゃぶ台に肘と手を置いて、振り返ってきた。膝から下をべったり床につけ、突き上げてほしそうに、腰を浮かしながら。
乱れた前髪の隙間から見える目が、蛍光灯の光でぎらぎらしている。
こめかみから汗が一筋、無駄のない輪郭を伝って流れていた。
「そうだな……。私は、女に生まれるべきだったと、よく思う」
かすれ声で言われて、思わず下を見た。
浴衣で隠れているこの部分が、女のソレだったら。
今頃は、親戚筋がもっと大家族になっていたか、刀傷沙汰の泥沼事件が起きていたかも知れない。
「やめとけよ。絶対ロクな事になんねーから」
俺は反対しながら、槐さんの腰を両手で押さえて、後ろから突き始めた。
ギッ、ギッとちゃぶ台が軋んで、槐さんは背中を反らせて、満足そうに喘ぐ。
もう動けないと思っていたのに、痛いくらいに硬くなって、また槐さんの中に出したくなっていた。
俺と槐さんの子供なんて出来ないのに。孕ませる事すらできないのに。
この人といると、和泉のことも、かーちゃんのことも、どうでも良くなってしまう。ここに居ない人のことまで考えていられない。そんな余裕なんかない。
槐さんに触りたい。この人にブチ込んで、俺のでいっぱいになるまで中に出したい。ただそれだけになる。
別に子供が欲しいわけじゃない。女も子供もいらない。この人が欲しくて、この人さえいればいいと、本気で感じてしまう。
多分、この人のオヤジも、それ以外の親戚も、あの若い男もオッサンも、今の俺と同じ気持ちで槐さんを抱いたんだと思う。
男ってのは、なんて単純で、無責任に作られているんだろう。
それは槐さんも同じ。今この時の快楽しか見えていなくて、自分が誰かを誘惑して、そのせいで血の繋がった家族の関係が壊れていってもお構いなし。
この人もこの人で、ずっと昔から狂っているのだ。
アパートからマンションへ帰る20分の道のりが、日に日に遠くなっているように思える。
やる事をやって、出したら早々にアパートを出てきた。片手にゴミの入ったコンビニ袋を引っ掛け、サンダルを突っ掛けて、暗くなった道を歩く。
男は身勝手な生き物だから、いくら夢中で熱を上げる相手でも、終わった後は少しだけ空虚な時間になる。
今日にいたっては、告白した後でこのザマだ。
俗に言う賢者タイムは生物的に必要なのだと、職場の後輩が熱弁をふるっていたが、それは事実なのかも知れない。
この隙を利用して帰らないと、俺は多分、死ぬまで槐さんに入れっぱなしだ。
ついに明日から仕事が再開する。人間らしい、社会人としての節度ある生活に戻さないと。
そう思っても、足腰がだるい上に、夜まで蒸し暑くてうんざりする。
槐さんは、ちゃんとエアコンを点けて寝ているだろうか。あの古くて音のうるさい、電気代も高くつく型落ちのエアコンを。
1人でいる時に限って、熱中症になりはしないだろうか。
槐さんは、スマホを持っていなかった。
外に出ないでほしいと頼んだ時、何かあった場合のために連絡先を交換しようとして、初めて知った。
家から出ないし、必要な時は住んでいた家の電話を使っていたらしい。
アパートにあの人が来るまでの連絡は、親戚とのやりとりだったから、まさかそんな生活をしていると思わなかった。
一人暮らしの長い俺には、イエ電の方が馴染みがないくらいなのに。少し年上とは言え俺と同世代で、現代社会においてスマホなしで何ができるのか。
ますます槐さんの不可解さが深まった。
結局、本当に困った時は公衆電話を使ってもらう事にした。
コンビニでメモ帳とボールペンを買って来て、俺の電話番号を書いて、メモ帳ごと渡した。俺の暮らしていた部屋には、アナログの筆記用具すら無かったから。
その公衆電話も、どこにあるか探すのに苦労したが、アパートから少し離れた公園の前にある。
何かあった時に、六文銭みたいに小銭を握ってそこまで行ってもらう余裕があるかどうかは、賭けるしかない。
尻ポケットからスマホを出して、くわえタバコで歩きながら、槐という花について調べてみる。
あのアパートにいる間、スマホの充電は減らない。
槐は、マメ科エンジュ属の落葉高木です。ミモザ、ニセアカシア、ニガキなどの別名を持ちます。
7月中旬から8月末に、黄色がかった白い花を咲かせます。秋には紅葉し、10月頃から豆のような莢のある果実を付けます。
読んでいるうちに、口がにやけて来る。左手でタバコを離し、煙を吐き出した。
もし、生まれたのが槐の花の咲く頃なら、あの人の誕生日はちょうど今頃なのかも知れない。
一瞬、前方を確認して、さらに読み進める。
排気ガスに強く、庭木のほか街路樹としても植えられています。また薬効もあり、止血、高血圧、その他の漢方薬に用いられます。
原産地は中国北部。中国語で「槐(ファイ)」と呼ばれ、周の時代、朝廷の庭に植えられていた事から、現代も出世の象徴となっているようです。
日本名「エンジュ」の由来は、古名「縁(エニシ)」が変化したもの。「延寿」「縁授」の字が当てられるため、縁起の良い木としても親しまれています。
周りに誰もいないのに、タバコを持ち直すフリをして口元を隠さなければならない気がした。
「……バカだよなぁ」
いつどこで生まれたのかも分からない、ほとんど何も知らない、あの人のことをずっと考えている。勝手に口がにやけるほど。
誕生日を知りたい、特別な日を祝いたいと思ってしまうのは、性欲以外の、感情を持ってしまったからだ。
俺は、人の誕生日を記憶しているタイプだ。
家族や親戚、友達や彼女は当然として、仕事関係や店の人なんかも、何かの拍子に1度聞いたら、基本的に忘れない。
と言うか、カレンダーや、4ケタの数字の並びを見ると勝手に思い出してしまう。
それが普通だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そんな事はないと人から聞いた時は驚いた。
記念日を特別視すると言うよりは、別れた後も元カノの誕生日を憶えているタイプの男だ。それも、何人も。
未練のあるなしじゃなく、頭に浮かんでしまう。
ただ、それを祝いたいかどうかは、また別の話というだけで。
そして今回は、祝えたらいいのにと、間違いなく思っている。
話の通じない、お互いに理解し合えない相手に、絶対に届かない感情を持ってしまったから。
もし、こうなる事があらかじめ分かっていたら、俺はあの人を引き取らなかっただろうか。
それはそれで、今となっては有り得ない気がする。
出会ったのを後悔してるんじゃない。失うのを自覚して、どうする事もできないから後悔しているのだ。
しがみ付いてきた槐さんの、耳に当たる吐息と声は頭の中にこびり付いている。
『ちゅうぎくん……』
俺の名前すらきちんと憶えてくれない。あの人にとって俺は、その程度の相手でしかないのに。
俺のこの「忠義」という名前は、父方のじーちゃんが付けたと聞いた。
人にも物事にも、“忠義”を持って向き合う男になるように。平たく言えば、じーちゃんの自慢の、戦国武将のような、カッチョいい男になるように。
正直なところ、「ただよし」にしろ、「ちゅうぎ」にしろ、俺にとっては蛇足でしかない。
フルネームを名乗れば読み間違えられる事はないが、先祖の話題は付いて回る。無関係らしいと伝えた時の、相手の気まずそうなリアクションも見飽きた。
かと言って名前だけだと、読み間違えられない方が珍しい。何より、ジジ臭くて堅苦しい。
忠義 ある男にならなければというプレッシャーから逃げたくて、気が付けば金髪の、ガラの悪いキャラになっていた。
田舎に帰って、親戚に会う時は黒染めのスプレーをするような、小手先でごまかす、こざかしい男だ。
それについて言うなら、あの人の名前は、「槐」という漢字は、初見なら絶対に読めないだろうな。
そこで思い付いて、槐の花について表示させたままだった画面をスワイプする。
検索結果の下には、それに関連する情報も出てくる。
エンジュの花言葉は、「上品」「幸福」「慕情」です。
どれも、違う気がした。
確かに身のこなしや話し方は上品だが、それ以外の行動はむしろ、下品だ。
そんなあの人の歩んできた人生も、暮らしぶりも、お節介ながら幸福なようには見えない。
さらに親指で長押しして、スライドする。コピペして、検索欄に放り込む。
「慕情(ぼじょう)」とは、誰かを慕う気持ちのこと。特に、異性に恋い焦がれる感情を指す。
類語……恋、恋愛、恋慕、恋情など。
これも、ナシだ。
誰かを特別に慕ったり、恋に焦がれたりといった事は、まったくしそうにない。男であれば誰でもいいと本人が言っていたくらいだ。
異性を恋い慕うどころか、むしろ真逆だ。
おまけにそれが原因で、親戚中から“エニシ”を切られそうになっている。
俺も、人のことは言えない。
忠義なんて武士みたいな名前を付けられても、誰かに忠義立てするような性格にはならなかった。
新卒で入った会社の上司と反りが合わずに、2年目でドロップアウトしたくらいだ。
浪人もして上京して、大学まで出してもらったのに、安アパートにしか住めないような、小さな町工場勤めになった。
やっと人並みの生活ができるようになっても、女1人食べさせる事もできずフラれて、今は、下品で不幸で人を狂わせる男にハマっている。
30年生きてきてこれなら、この先もずっとこうなんだろう。
名前負けと検索しそうになって、やめた。
ふと画面から顔を上げた拍子に、掲示板が目に入った。いつもなら素通りしている、地域の掲示板だ。
スマホがあれば欲しい情報が何でも手に入るこのご時世でも、ネットに馴染みのない人は活用しているらしい。例えば槐さんみたいな、時代からも世間からも隔離されて、取りこぼされそうな人が。
貼られている紙に目を通してみても、年寄りか子持ち向けの、運動やコミュニティづくりの案内だった。
町内清掃のボランティア募集、英会話体験、スマホ教室……どれも、俺には関係がない。
ただ1つだけ、気になる物があった。
花火大会のお知らせだ。
8月25日土曜日、19時半から30分間。主催は商工会の青年部で、会場は市民文化センターの近く。
そう言えばそんなのあったな、と思い出す。
この綾瀬には6年も住んでいるが、毎年この時期になるまで忘れている。当日になって浴衣の人を見て知るとか、音が聞こえて初めて気付く事さえあった。
ネットでも情報が流れてくるわけでなく、本当に地域の掲示板程度の認識だった。
会場まで行かなくても、あのアパートの部屋の窓からなら、花火自体はよく見えた。打ち上げ場所が畑だから、視界を遮る物が無いのだ。
ちなみに引っ越したマンションからは、方角的に見えない。アパートはもうすぐ取り壊される。
色んな意味で、今年しかない。誘う理由には充分だろう。
自覚する前に、槐さんの顔が浮かんでいた。
ずっと部屋にいて、好きでもない男に抱かれて、好きでもない読書をしているあの人に教えてやりたい。
時代と世間から置いてきぼりを食らっている、浴衣を着たあの人に。
タイムスリップしたみたいな部屋で、蚊取り線香でも焚いて、団扇と、カットされたスイカと、冷やした日本酒があればいい。
歌舞伎俳優みたいな人だから、日本らしい夏がよく似合う。絶対に絵になる。
メモ代わりに、スマホで貼り紙の写真を撮っていたら、急に恥ずかしくなった。
短くなったタバコを踏み付けて潰して、コンビニ袋をガサガサ言わせて、早足でマンションに向かう。
単に、俺が見たいだけだ。
花火を見ている槐さんを見たいし、槐さんと一緒に花火も見たい。
色んな想像をしてしまう。
分かってる。やべーくらい、浮かれてる。遊び方も知らないウブな中学生が、同級生の女子を誘うみたいに。
でも、やっぱり俺は下衆な大人だ。
その時だけを楽しんで終わるんじゃ足りない。
たとえいつもみたいに、花火を見ながら“やる事”をやる事になったとしても、そこで終わりにしたくない。
8月が終われば知らない誰かの所に行ってしまうあの人の中に、俺との思い出を残しておきたいと思う。
俺の届く限りいちばん奥に、刻み付けてやりたい。
これから死ぬまで何十回と夏が来て、金持ちの豪邸か、VIP席みたいな場所で花火を見る度に、ちょっとだけでいいから、俺のことを思い出してくれたら……。
大人の割にはみみっちい事を企んでいる自分が情けなくて、恥ずかしくて仕方がない。
でも、今更どうしようもなかった。
早歩きしながら、さっきの検索ページに戻っていた。ネットサーフィンが止められなくなったのは久しぶりだ。
何かひとつでも、あの人について知る事ができる気がして。
そうしているうちに、信じられない文章が目に入った。
「槐」という漢字は、現在、人の名前には使用できません。
思わず足が止まる。
「……は?」
誰に言うつもりもないが、声に出していた。
そもそも鬼という字が入っていますし、お子さんの名前にしたがる人は少ないと思います。
どうしても「えんじゅ」という響きが気に入ったなら、「延寿」など縁起の良さそうな字を当てるといいでしょう。
色んな意見が飛び交っているが、少し考えれば確かに、おかしいと分かりそうなものだ。
あの人の槐という名前は、本名ではなかった。
一瞬、アパートに引き返そうか迷った。
本人に聞きたかった。これは一体どういう事なのかと。
家族なのに、名前すら教えてくれず、本名だと嘘をつかれていた。裏切られた気分だったし、あの人に関しての謎が増えてしまった。
けど、すぐに考え付いた。
元はと言えば親戚の例の会議でも、槐としか呼ばれていなかったはずだ。親戚からの連絡にも「槐」という字で書かれていた。
一族総出で、俺を騙しにかかっているとは考えられない。
あの人が本名を俺に隠したと言うよりは、何か事情があって、親族にも知らされていない可能性の方が高い。
そして槐と呼ばれているあの人自身も、本名だと思い込んでいるだけか、人に言うなと誰かに言われているのかも知れない。
普通ならありえない話だ。ただ、あの人の置かれた状況は、何ひとつとして普通とは言えない。
学校にも行かず、社会から隔離されて生きているなら、本名が無くても呼び名みたいなものさえあれば、やって来れてしまうだろう。
名前が無いなんて、俺には考えられないが。
これ以上の答えは、検索しても出てきそうにない。
それにこれも、今更どうしようもなかった。
あの人はもう俺にとっては「槐さん」でしかなかった。
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