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第三章 イエス・ノー・イン・シンク⑤
佳嘉から形に残るものをもらえただけでも充分だったのに、それがお揃いともなると、それを見るたび今日という特別な日に心が震える。
中華料理店での映画談義は予想以上に盛り上がってしまい、二人が店を出たのは普段よりもずっと遅い時間となってしまっていた。
映画館のある街の周辺は、夜になれば少し治安が悪くなる。危険だからと佳嘉は真生の手を取り、中華料理店から駅までの道を歩く。
もう夏も近い時期だったが空はもう真っ暗で、まばゆいネオンの中連れ立って歩く少し薄着をした男女と何組もすれ違った。
恋人関係、不倫関係、その関係性は様々だろう。もちろん自分たちのようなパパ活の関係である男女も少なからず含まれている。
「少し遅い時間になってしまったね。電車はまだあると思うけど」
真生の右手と佳嘉の左手、繋ぎ合うそれぞれの手首には蛍光塗料で輝きを放つリフレクターバンドがあった。
これだけの関係であっても、まだ佳嘉にとっての自分は金銭を援助されるだけの存在なのか。この繋がれた手は、本当にただ庇護の目的だけなのか。
真生の手を引き駅への道を向かう佳嘉だったが、突然真生がその足取りを止める。
「――ねえ、少し休んでいこうよ」
真生の言葉に佳嘉も足を止めて振り返る。自然と繋がれた手はどちらからともなく解かれていた。
真生が足を止めたのはネオンが煌めくホテルの前だった。
解かれた手は居場所を無くし、自然と自らの腕を掴んでいた。佳嘉は足を止めたまま、ただ黙って真生を見ている。
そこにあるのは拒絶か失望か、何も言わずに立ち尽くす佳嘉へ一歩また一歩と重い歩みを寄せる。
「ぼく、佳嘉さんとなら……大人、してもいいよ」
物理的な距離は実際に近づいても、真生は心の距離感をその肌でひしひしと感じていた。
薄いレンズにネオンが反射し、その奥にある瞳の動きは分からない。真生は佳嘉の腕を掴んで見上げる。
「佳嘉さんは、ぼくとシたくない?」
佳嘉の腕が動き、真生の頬へ手を添える。
グローブ越しの掌だとしても指先の感触は本物で、真生は少し傾けるようにして手に頬を預けると、大切そうに両手で佳嘉の手を包み込む。
もっと触れてほしいし、もっと佳嘉の深くまで触れたかった。
この瞬間が今日一番幸せなのかもしれない。
「ぼくは佳嘉さんがいいならいつだって構わないんだよ……」
今日は休みで明日も休み。暦通りの休日と言っていた佳嘉ならば、明日の仕事を気にする必要もないだろう。
顔合わせの時は急ぎすぎて失敗した。佳嘉のような欲求が表に出ないタイプは少しずつ、そして時には自分から強引に攻めていかなければならなかった。
それがもう単なるパパ活ではなく、恋の駆け引きに近いものであるということに真生も気付いていた。
「手当て、足りてないのか?」
まだ〝パパ〟であろうとする佳嘉がそう返してくることも、真生の想定の範囲内だった。
だから少しだけ舌を出して、見せつけるように佳嘉のグローブをを舐める。ただの革の味がした。
「違うよ……ぼくが、佳嘉さんとシたいんだよ。えっちなこと」
そのレンズの奥の瞳の色を、シャワーを浴びたあとの崩した髪型も、まだ見たことのない佳嘉のことなら何でも知りたかった。
ただ、自分のことはあまり知って欲しくはなかった。
興味、執着、言葉はなんでもいい。〝パパ〟ではない樋野佳嘉のことが知りたかった。
自制心はまだあるほうだった。それでも、今日という絶好のチャンスを逃してしまえば、次にいつ佳嘉がその気になってくれるかなんて分からない。
百歩譲って今日でなくても良い。それを視野に入れられる確たる証拠だけは今この場でほしかった。
人が行き交うホテル前の道で佇む二人。片方は見るからに若い少年で、片方はスーツを着た地位もありそうな男性。
外聞を気にするならば、佳嘉は必ずこの場でなにかしらの答えを出すだろう。たとえ前向きではなかったとしても、話し合いのために人目を避けてホテルの中を選ぶということも考えられた。
少なくとも密室空間に連れ込むことが出来れば、真生の勝利は確定していた。
「――馬鹿なこと言ってんなよ」
佳嘉の冷静な一言は、真生の期待すべてを容赦なく叩き潰す。
上手く笑えていたのかも分からない。どんな顔をしていたのかも真生はもう覚えていなかった。
「これ以上遅くなる前に帰るぞ」
佳嘉は下ろした手で真生の手首を掴み、再び駅への道を歩き始める。
真生の右手と佳嘉の左手、手首には二人お揃いのリフレクターバンドが優しく光り輝いていた。
それがとても悔しくて、真生の目にはじわりと涙が浮かんでいた。
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