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第10話

 売れっ子芸能人は、忙殺した毎日を送っている。そんなことくらい素人の斗楽でも、容易に想像がつく。  だからこそ、タイトなスケジュールの中、何とか作ってもらったこの時間はあとにも先にもない勝負の日だ。  今日、ここでしくじったら、仕事としても、気持ちとしても、全部終わる。  浅見の所属する、『アルタイルエンターテイメント株式会社』のビルを見上げた斗楽は、ゴクっと生唾を呑んだ。  手足が冷えているのは、寒さからではなく緊張からだった。  受付にアポを告げたあと、赤坂とロビーで担当者を待っていると、スーツ姿の男性がこちらへやって来るのが目に入った。 「お待たせいたしました、広報部の桜田(さくらだ)です」  四十代前半くらいの男性が和かな表情で、斗楽たちに声をかけてきた。 「初めまして、アヴェクトワ株式会社の赤坂です。本日はお忙しい中お時間いただき、ありがとうございます」 「去来川です。よろしくお願いします」  赤坂に続き、斗楽も名刺を桜田に渡した。 「こちらこそよろしくお願いします。では事務所の方へご案内いたします、こちらへ」  桜田とともにエレベーターで七階まで行くと、ロック付きのドアを通過し、そのまま応接室へと案内された。  緊張で斗楽の体はガチガチで、操られたような歩き方になってしまう。  ソファに座ったはいいが、背筋が異常に伸びて妙な姿勢になってしまった。 「去来川、そんなに緊張するな。自然にしてろ」  斗楽の態度を赤坂が小声で諌めてくる。  わかってます、わかってますけど自分は今、超絶、複雑な心境なんです──  何て、言えるわけない。  浅見と初めて会ったフリをしなければいけない、なんて……。  何よりも生の『浅見薫』を前にして、スムーズに仕事の話ができるのかも不安だった。 「お前はいつものように振舞っていればいい。変に気負うと、逆効果だぞ」  学生のときから斗楽を知る赤坂に言われ、「そうでした」と、素直に受け止める。  深呼吸をして多少の力は抜けたけれど、これから浅見に会えるかと思うと、体の強張りは簡単には消えてくれない。  膝の上で固く閉じたこぶしを握り直し、ドアの方を凝視していると、ノックと同時に桜田が姿を現した。 「すいません、お待たせいたしました」  赤坂と同時にソファから立ち上がり、返事の代わりに一礼をする。  ゆっくり顔を上げた斗楽は、自分の喉が一瞬でひくつくのを感じた。  桜田の後ろから浅見の姿が見えたからだ。  覚悟はしていたのに、頭の中が真っ白になってしまった。 「こちら浅見です」  桜田の紹介で浅見が軽く会釈し、「浅見薫です。よろしくお願いします」と甘い声。  それだけで、とろとろに蕩けてしまう。 「初めまして、赤坂と申します。いつもテレビでご活躍を拝見しております。本日はお会いできて光栄です」  名刺を取り出し、浅見の前に差し出しながら赤坂が先に挨拶をする。  続けて斗楽の番だったが、何でもないビジネスシーンなのに、極限の緊張が斗楽を襲う。  名刺入れから一枚の紙を出す、たったそれだけのことなのに悪戦苦闘してしまった。 「は、初めまして。い、去来川と申します」  やっとの思いで抜き取った一枚を、震える指で差し出す。  上擦ってしまった声で緊張に拍車がかかり、耳朶も熱くなってきた。  斗楽との再会に動じない浅見が涼しい顔で名刺を受け取り、「よろしく」と言ってソファに座って足を組む。  何でもない動作なのに、なんて美しい所作なんだ。  柔らかい口調はホテルで過ごしたときに聞いた声と同じで、甘い夜の光景がよみがえってくる。  つい、感嘆の息を漏らして、赤坂にひと睨みされてしまった。 「さっそくですがお電話でもお伝えしたとおり、今回浅見さんにお願いしたいのは雪村酒造さんの新商品CMです。先方はイメージにぴったりの浅見さんに是非お願いしたいと強いご要望なんですが。いかがでしょうか」  赤坂が資料をテーブルの上に並べながら、依頼の話を進める。 「日本酒が浅見のイメージに合うのはよく理解できます。ただですね、ちょうど今、別の企業からもオファーがきてるんです。それもお酒のCMなんです」  資料を手に桜田が申し訳なさそうに言うと、すかさず赤坂が「そちらとは具体的に話が進んでいるのでしょうか?」と尋ねた。 「いえ、まだこれから返事をするという段階ですね」  眉根を寄せる桜田を目にし、このままでは断られてしまうと斗楽に不安が生まれる。  何とか雪村酒造の商品を、浅見に興味を持ってもらわないといけない。  けれど、きっかけを導き出そうと考えても、焦って最適な言葉が浮かばない。  頭の中では、日本酒を口にする浅見の絵コンテが出来上がっている── 「去来川さん」  思考を張り巡らせていると突然浅見に呼ばれ、「は、はいっ」と、バネが伸びたように勢いよく立ち上がった。  斗楽の動きに赤坂が唖然とし、桜田は目を見開いてこちらを見ている。  しまった、またやらかしたっ!  鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。  真冬なのに汗が吹き出して、膝はガクガクと震え出した。  無様な自分をどう修復するか、考えあぐねいていると── 「プッ! アッハハハッ」  突然、浅見が爆笑した。  桜田が横で肩を揺らす浅見をギョッとした目で見ている。  大笑いされて戸惑っていると、見兼ねた赤坂にスーツを引っ張られ、座れと目で合図を受けた。  慌てて腰を下ろすと、笑いの余韻を含んだ顔で浅見が手で謝る素振りをしている。  まだ小刻みに体を震わせている姿に、意外と笑い上戸なんだなと思ってしまった。  忘年会の日も、ホテルで過ごしたときも、浅見さん、めちゃくちゃ笑ってたもんな……。  再び奇跡の再会シーンを思い出していると、「すいません」と浅見が謝っている。 「いや、ちょっと去来川さんに聞きたくて」 「おれ──いえ、私にですか?」  突然のフリに、声が裏返ってしまった。 「そう。君は雪村酒造さんがどうして俺に依頼をしてきたんだと思う?」  窓から差し込む光が浅見の横顔を照らし、斗楽を見つめる瞳がアンバーのように見える。  墨を引いたような目尻を少し下げて見つめられると、胸が一段と騒がしくなった。  浅見はもちろん、桜田も、斗楽がどんなことを口にするのか注目している。  赤坂に至っては、部下の発言次第ではこの案件は仕切り直し、若しくはキャンセルになるかもしれないのだから気が気じゃないはずだ。  斗楽はすっと息を吐いて、落ち着けと自分に言い聞かせるように唇を引き締めた。  浅見の顔を真正面から見据えて手のひらを握ると、唇をふわりと解き、瞳を瞬かせたあと憧れの人を見つめ返した。 「雪村酒造さんは、今は蔵元の娘さんが後を継いで杜氏(とうじ)をされています。今回の商品は、この方の手掛けた第一号なんです」  両手を膝の上で握り締めたまま話を続けた。 「少し前までの雪村酒造は、今の杜氏さんの弟さんが後を継いでいたんですが、病気で他界されてしまったんです。彼は亡くなる前まで、若い人にも親しんでもらえる日本酒を開発したい、そんな思いで酒造りに挑んでいたそうです。ですが志半ばでこの世を去ってしまって……。彼の成し得なかった思いをお姉さんが引き継ごうと、一から酒造りを学び、何年もかけてやっと出来上がったのが今回の日本酒なんです」  斗楽の話を浅見や桜田がジッと聞いている。  二人が目線だけで、一瞬目配せをしていたけれど、斗楽は話を続けた。 「浅見さんは歌の世界で輝き、今は役者として邁進(まいしん)しておられます。新しいことへチャレンジする気持ちは主婦だった杜氏さんが、弟さんの夢を完成させようとした気持ちと似ているのではと思ったんです」  自分の勝手な想像ですがと、浅見の眼差しを感じる中で付け加えた。  赤坂の心配げな視線を横顔に感じていたが、それは最初だけだったように思える。 「新商品は深くてほのかに甘く優しい味です。若い方や年配の方からも支持されている浅見さんの、優しくて温かなイメージそのものだと、雪村さんは感じたのではと私は考えました。あの、抽象的で……申し訳ありません」  ソファに座ったまま、斗楽は深々と頭を下げた。  ああ、またやってしまったかもしれない。  浮かんだ言葉をペラペラと口にしてしまった。  夢中になるといつもこうだ……。  沈黙の中、斗楽は顔を伏せたまま前を向けずにいた。  浅見は気分を害したかもしれない。  桜田も呆れてるかもしれない。  赤坂や営業部に謝ることを考えていると、気配で浅見が立ち上がったことに気付いた。  斗楽は顔を上げた。  扉を開けて、出て行こうとしている浅見が目に飛び込んでくる。  やはり怒らせてしまったのだ。  思わず立ち上がった斗楽は、「す、すいません浅見さん。生意気なことを……」と、背中に声をかけた。  斗楽の言葉に反応したのか、浅見が振り返る。  真っ直ぐに斗楽を見つめてくると、息を呑むような優しい微笑みをくれた。 「桜田さん、雪村酒造の仕事を引き受けるから。もう一つの依頼は断っといて」

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