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第11話

「いやぁ、でも浅見のあんな顔を見たのは、私も入社以来初めてでした。何より声をあげて笑うなんてねぇ」  浅見からCM出演の了承をもらった数日後、斗楽は打ち合わせのために再びアルタイルエンターテイメントに足を運んでいた。  前回の浅見の態度が余程珍しかったのか、応接室に案内された途端、桜田が夢中で感想を述べている。 「私はテレビの浅見さんしか知らないので、プライベートでは気さくな方なのかと……。でも、依頼を引き受けていただいて嬉しかったです。本当にありがとうございました」  テンションの高い桜田に気押されながらも、平常心を心掛けた返事をした。 「去来川さんの力説が効いたんでしょうね、きっと」  桜田が斗楽の方を見てニカッと笑った。  始末書ものになるか紙一重だった発言は、浅見の度量に救われた気がする。 「いえ、生意気なことを言って、本当にすいませんでした」  他社のCMを断ってまで引き受けてくれたのは、本当に嬉しかった。  (やぐら)でもあればそこに登って、太鼓の音とともに歓喜の声を響かせたいところだ。  斗楽の演説が効いたかどうかはわからない。  ただ、心で思っていたことをそのまま口にしただけの、何の作戦も攻略もない、感情のまま羅列した言葉だった。  それに、まだ不安はある。  CMの概要を知ったら、浅見さんはやっぱり無理だと断わるかもしれない……。 「熱かったですよね、去来川さん。でもそれが浅見に響いたんでしょうね」  あれこれ考えているところへ、桜田から興奮の眼差しを向けられた。 「あ、いえ。勝手なイメージで話してすいませんでした。でもそうおっしゃって下さって嬉しいです。では早速、今後のフローの説明をさせていただきますね」  桜田の興奮を宥めるよう、資料をテーブルの上に並べながら言った。 「撮影は山梨県河口湖の温泉旅館で、そこの離れを借りて撮影します」 「温泉?」  桜田が不意を突かれたような表情で見返してくる。 「はい。浅見さんには露天風呂に入っていただき、雄大な空と湖が広がる中で、富士山を遠目にアカペラで歌う、というコンセプトを考えております」 「アカペラ? 浅見が歌うんですか?」  一驚する桜田を予想していた斗楽は、ここからが正念場だと喉を鳴らした。 「はい、歌を、歌っていただきます」  穏やかだった桜田が顔を歪ませたかと思うと、困惑の表情に変わる。 「申し訳ないですが、浅見は歌わないですよ。私たちもこれまで何度も打診しましたけれど、浅見は首を縦に振らなかった。だから今回の件も無理だと思います。我々も浅見が歌から離れた理由を抽象的にしか知りません。けど、余程の理由が彼にあると私は思ってます」  大きなため息を吐き、桜田がソファに荒々しくもたれて落胆を見せる。 「それは重々承知の上です。それを踏まえての依頼をさせて下さい」  身を乗り出して桜田に詰め寄ろうとしたが我に返り、申し訳ありません、と深謝してソファに座り直した。 「桜田さん、一度でいいんです。浅見さんを説得するチャンスをいただけませんか? もし、どうしても無理なら、曲を流すだけにいたしますので」  苦肉の提案に桜田が口を一文字に結び、腕を組んで熟考している。  組んだ腕の先にある人差し指が、何かを生み出そうと小刻みに動く。 「お願いします、浅見さんの歌が流れると、視聴者はCMでもザッピングせず食い入って見ると思うんです。浅見さんの歌は、最高の演出になると思うんです」  自分の思いをゆっくり訴えた。  桜田からは唸り声が聞こえる。  少しの間を開けたかと思うと、不詳不詳ながらも、わかりましたと返事をくれた。 「浅見の強固な思いは覆ることはないと思います。それでもとおっしゃるのなら、一度説得してみて下さい。もし、浅見がその気になったら、我が社は万歳三唱ですよ」  桜田が大袈裟なほど肩で息を吐き、気持ちに弾みをつけるよう膝を叩いて言ってくれた。 「あ、ありがとうございます!」  斗楽はまたバネのように立ち上がると、腰を折るようにして深々と頭を下げた。        ****   「お電話変わりました、去来川です。お世話になっております、桜田さん」  浅見への説得を宣言してから二日後、待ちに待った電話がかかってきた。 『去来川さん、急なんですが本日の十九時いかがでしょうか? 撮影があったんですが悪天候で中止になりまして、十九時以降はオフになったんです」  桜田の言葉に、斗楽は武者震いした。 「はいっ、こちらは大丈夫です」 「では十九時に事務所で。浅見にも来るように伝えておきます」 「かしこまりました。十九時にお伺いいたします、よろしくお願いします」  嬉々として返事をした斗楽は、そっと受話器を置くと、あまりの嬉しさにガッツポーズをした。  本当は、やったーと、大声で叫びたかったけれど、さすがに社内ではできない。  足元から沸々と湧き上がる熱が、血流にのって全身に巡ってくる。  かと言って浮かれてばかりはいられない。ここからが本番だ。  興奮とともに味わったことのない緊張感に襲われると、両手を握っては開くを繰り返す。  みなぎる力を本番で出し切れるよう、持てる力全てを体内に取り込む。  落ち着かないまま時間まで業務をこなし、斗楽は浅見の事務所へと足を運んだ。  ジャケットを整え、前髪を指で梳《す》いて身構えていると、桜田が現れた。 「去来川さん、急ですいません」 「とんでもない。こちらこそチャンスをいただき、ありがとうございます」  頑なに歌を拒む浅見を口説くのは容易ではない。  けれど浅見のアカペラ案は斗楽の提案だ。  言い出しっぺの自分が、浅見の首を縦に振らせないと。  応接室に通され、浅見との対面に心拍数は跳ね上がる。 「いえ、どうぞおかけください、じきに浅見も──ああ、来ましたね」  桜田が言い終わるのを待たずして、浅見が入ってきた。  覇者のようなオーラの再来に体は強張り、反射的に会釈をした。  けれど今の動きはロボットのように滑稽だったと、自分でも思う。 「きょ、今日はお忙しい中、お時間さいていただきありがとうございます」  平静を取り繕うと、「こんばんは、去来川さん」と、さすが俳優。  前回と変わらず、涼やかな笑顔で名前を呼ばれ、やっぱりカッコいいなと見惚れてしまう。 同じ空間にいることに呼吸困難になりそうだ。 「改めてまして今回のオファーを引き受けていただき、本当にありがとうございます」  頭を下げたあと、撮影プランやコンセプトの説明に入った。  露天風呂で撮影と、ここまで説明を終えると斗楽は浅見の様子を伺った。  黙ったまま話を聞いている視線が痛い。  この先の話を聞いた浅見の反応が怖い。  不安が勝手に顔から滲み出てくるけれど、ここまできたら貫くしかない。  斗楽は意を決して口を開いた。 「浅見さんには温泉に浸かりながら、日本酒を飲んでいただきます」 「ふーん、じゃ俺は脱ぐんだ」 「は、はい! すいません……でも上半身だけですから」  慌てる斗楽を浅見がからかうように尋ねてくる。  いつもなら明るく笑って返せるのに、今回はそうもいかない。 「で、その……浅見さんには温泉に浸かりながら、アカペラで歌っていただきます」  恐る恐る問題のワードを口にした。  案の定、浅見の綻んでいた表情が一気に曇る。 「歌か、それは──」  拒まれるのは承知の上だった。  浅見の笑顔が崩れ、薄氷のように触れただけで割れてしまいそうな瞳に変わる。  予想していた反応とはいえ、決心も揺らぎそうになる。 「わ、私は浅見さんが歌を手放した理由を存じません。けれど素晴らしい歌をたくさん歌ってこられたのは知ってます。それは私だけではなく他にもたくさんいます」  瞬きも忘れ、懇願するように語る斗楽とは反対に、浅見の顔は翳っている。 「去来川さん、やはり歌はちょっと難しいかと……」  不穏な空気を悟ったのか、桜田が申し訳なさそうに割って入る。  それでもCMには浅見薫の歌が必要なんだと、斗楽は力説を続けた。 「…………以前、雑誌のインタビューで浅見さんが話していました。『完全な絶望を味わったあとに残るのは、目の前の大きな壁だけ。』『それを乗り越えて向こう側に行ける人間になるために、今は自分から歌を取り上げた』って話を思い出したんです」  ここまで話た斗楽は、そっと一呼吸した。  浅見は黙ったまま、斗楽を見ている。 「浅見さんの前に挑むべき壁があるというなら、今回のCMをその壁を飛び越える踏み台の一つにして欲しいと思ってます。杜氏さんが弟さんの死を乗り越え、彼の夢を完成させた美酒を伝えられるのは、壁に挑む浅見さんが最適じゃないかと思ったんです」  一気に話し終えると浅見を真っ直ぐ見据えた。 「傷付いた心を癒したり勇気をもらったり、温かくすることができる方法は色々あると思います。その中の一つとして浅見さんの歌は、偉大な力が放たれると私は思ってます」  ちょっと、大袈裟でしたかねと恐縮し、頭を下げて再び嘆願した。  どうか歌ってもらえますようにと、願いを込めて。 「……わかりました。少し考えさせてください」  浅見がポツリと言った。  そのまま腰を上げかけたとき、「あの」と、斗楽は去って意向とする背中を引き止めた。 「お返事をいただける日に、少しでいいので時間をくれませんか。浅見さんにどうしても見てもらいたいものがあるんです」  ドアに手をかけようとする後ろ姿にぶつけるよう、声を張った。  少しの間を置き、浅見が肩越しに振り返ると、わかったと許可をくれた。  今はこのひと言だけで十分だ。そう思い、斗楽は頭を下げた。 「ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」

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