12 / 35
第12話
浅見が返事をしたいと言っている。
そう、桜田から連絡をもらったのは、今から一時間前だった。
約束の時間は十八時。
遅れないようにと早めに会社を飛び出し、浅見の事務所に向かった。そして今、マックスの緊張感を味わいながら、いつもの応接室ではなく、斗楽は会議室に案内されていた。
モニターがある場所をお願いします、そう頼んだのは斗楽だった。
果たして自分が立てた予定のところまで運べるか。
出されたお茶に手もつけず、強張った面持ちで待っていると、ドアをノックする音が聞こえて椅子から飛んで立ち上がった。
「どうも、去来川さん。お待たせいたしました。浅見もすぐ参りますので」
どうぞと着席を促され、斗楽が座りかけたとき、再びドアが開いて浅見が入って来た。
術をかけられたようにまた立ち上がると、長机に額がつくほど頭を下げた。
「ほ、本日はお忙しいところ、お時間とっていただき、ありがとうございます」
頭を下げたまま言うと、「いや、それより──」と、浅見の唇が言葉を紡ごうとしてくる。
ヤバい。このままだと断られて、雪村酒造さんをがっかりさせてしまう。
頭をゆっくり上げると、斗楽を見据えてくる浅見の目と合う。
斗楽は一か八かだと奮起し、鞄から一枚のDVDを取り出した。
「浅見さん。これを観ていただけますか」
「これは?」
「このDVDには浅見さんの歌が慕われ、たくさんの人に歌われていることが詰まってます。それを知っていただきたくて、お持ちしたものです」
斗楽は浅見の前にディスク差し出した。
「お忙しいとは思いますが、どうか観ていただけますか。お返事はそのあとにお願いしたいのです」
少々強引ではあるかなと思いつつ、よろしくお願いしますと、ひと言添えると、心を込めてもう一度頭を下げた。
「……これを今から観るのか」
どういう意味で吐き出されたかわからない言葉が、ズシッと肩に重くのしかかる。
いや、めげるもんか。浅見薫あってのこの企画だ。何としても遂行したい。
浅見がDVDに手を伸ばすことを祈った。
神様仏様、この際、悪魔でも誰でもいい。どうか、お願いしますっ。
逡巡している浅見が斗楽とDVDを交互に見てくる。無言なのが怖い。
浅見の動きを見つめていると、会議室の外から何やら騒がしい声が聞こえ、ノックもなしにドアが勢いよく開かれた。
「あー、いたいた。薫、発見っ!」
部屋に飛び込んできたのは、スキンヘッドに顎髭といったワイルドな風体の男だった。
「蓮 。お前はノックもできないのか。ここへ何をしに来た」
呆れた口調で浅見が声をかけると、大友蓮 がふんぞり返ってピースサインをしている。
「あ、あの……」
突然現れた新参者に戸惑っていると、蓮が机の上に手をついて、下から掬うように斗楽を覗き込んできた。
「何をしにって、俺は脚本が上がったから飲みの誘いにきた。薫こそ撮影で札幌に行ってたんだろ? なのにいつの間にか帰って来て、こんな可愛い男の子連れ込んでさ。職場に呼びつけて何しようってんだ? やっぱ女より可愛い男の子の方がいいか? 桜田さんも注意した方がいいよ、節操がないって」
「大友さん、冗談はそれくらいにしてもらえますか? 今、打ち合わせ中で──」
「あー、何に何、このDVD。やっぱ、イヤらしいことでも企んでるな。薫、吐けよ」
机の上に置いてあった斗楽の渾身の作を、大友はどうやら如何わしいものと思っているのか。
浅見の首に自身の腕を巻きつけ、プロレスの技をかけている。
されるがままの浅見を見る限り、二人は親しい仲なのが見て取れたけれど、今はそれどころじゃない。
「すいません、去来川さん。彼は大友蓮といって、脚本家なんですよ。結構売れっ子なんですけれど、ご存知ないで──」
「し、知ってますっ! あ、あの浅見さんが失明するドラマの脚本を書いた先生ですよね! 見えなくなる前に出会ってた女の人が自殺するのを止めて。でも、そのあとで浅見さんは失明しちゃって。そんな浅見さんを女の人はほっとけなくて。俺、あのドラマ大好きで、何度も何度も観ました。って言うか、ディスク買っちゃいましたよ。そのドラマの脚本の先生ですよね、大友さんって。うわぁ、感動です。伝説のドラマに携わっているお二人といっぺんに出会えて。あー、どうしよう今日は眠れな──と……失礼しました……」
陶酔して感想をつらつら話してしまい、三人の視線を一斉に浴びてしまった。
や、やらかしたー。こんな大事な日に、俺ってば、また……。
「かっわいいー。何、この子。おい、マジで薫、こんな子どこで見つけた。あ、だからこの間のパーティーでも、言い寄ってくる女に脇目も振らなかったんだな」
うんうん、わかるわかると、妙にひとりで納得している。
そんな大友を白い目で見ている浅見が、今度は斗楽を見つめてきた。
どうしよう。さっきのドラマの話は失敗だった。でも、大好きな役者と脚本家が目の前にいたら興奮するなっていう方が無理だった。
よし、ここはもうひと押しするべきだ。
斗楽は改めて懇願しようと、DVDに手を伸ばそうとした。すると、先にそれを大友に奪われてしまった。
「で、これは何が映ってんだ。まさか、お前。これでこの子を脅してんのか、だから桜田さんがお前をいい含めよう──痛って。何だよ、殴んなよ。冗談に決まってるだろ、いつもの俺のアメリカンジョークだ」
「どこがアメリカンだ。もうお前、用がないなら帰れば?」
「そうですよ、大友さん。今は浅見がCMで歌うか歌わないかの、大事な話をしてるんです」
「歌? 薫ちゃんはとうとう歌う気になったか」
いいじゃん、それ。と、本人より大友がその気になってる。
浅見がわざと溜息を吐いてもおかまいなしで、鼻歌混じりに大友が立ち上がると、ディスクを持ってデッキの中にセットした。
「あ、おい。お前、何を勝手に──」
「いいじゃん。みんなで観ようぜ、そこのかわい子ちゃんが喜んでるし」
大友に指摘され、思わず斗楽は両手で頬を挟んだ。
ディスクを再生されることが嬉しすぎて、知らずに喜びが顔に出てしまったのだ。
ひとりで観るから、と言った浅見の声は無視され、大友がリモコンの操作を進めている。
「どんな内容か気にならないのか? 俺は気になる」
「お前が気にしてどうするんだ」
大物二人のやり取りの横で、桜田が口パクですいませんと、言ってくれる。
斗楽も、いえ、とひと言だけ伝えた。
チラッと、動画が再生されるのを待つ浅見の横顔を期待を込めて見つめた。
どうか、最後まで観てもらえますように。そして、歌う許可をもらえますように。
大友の乱入には驚かされたけれど、DVDを観てもらえるきっかけを作ってくれたことには感謝しかない。
彼は神様……いや、悪魔か? この際どっちでもいい、ありがとうございます。
あとは内容を知って、浅見の気持ちが動くかどうかだ。
こればかりは本当に神頼みしかない。
動画が始まった──。
タイトルもなく、いきなり映像が流れ出す。
どこかの会館のような場内が映ると、舞台のような場所が画面いっぱいに現れた。
ざわざわした声が大きくなると、それを静止させるよう、マイクを持った司会らしき男性が舞台の袖から音声を確かめている。
男性から再び壇上へアングルが変わり、正面で静止すると制服を着た男女がひな壇を端から埋めていった。
『次は、卒業生による送る歌』と司会の男性がマイクで進行すると、ピアノ演奏が始まった。
「これどっかの中学? の卒業式だな」
無言で観ていた大友が呟く。
的を得ない映像の始まりに、首を傾げつつも浅見の視線は画面を観ていた。
前奏が始まり、流れてきた曲に浅見の目が見開かれ、横で座っている大友もわかったのか、「へー」と口角を緩めていた。
「これ薫の歌だな。たしか学園もののドラマの主題歌だったよな」
「……だな」
声変わりが初々しい男子生徒と、それを補うような女子生徒の歌声が、友情や絆を表している歌詞にピッタリで、参列している保護者の何人かはハンカチで目頭を拭っていた。
二人はしばらく耳を傾けていたが、大友があることに気付いてポツリと漏らした。
「この学校、青森県みたいだな」
「青森? 何でわかった?」
画面に映っている壇上の金屏風の横に、『第五十四回青森県第三弘前中学校 卒業式』と書かれた進行表を大友が指差した。
「本当だ……」
答えたあと再び無言になり、部屋には中学生の歌声だけが波紋のように広がっていた。
「やっぱいい歌だな、この曲」
優しく包み込むようなメッセージソングを、大友が懐かしそうに聴いている。すると、「俺が初めて書いた曲だ……」と、浅見がポツリと溢して画面に視線を戻した。
卒業生の合唱が拍手喝采で終りを告げ、液晶画面は暗くなった。
大友がリモコンを手に、「終わったか」と言って画面を消そうとしたとき、暗転が明るくなると、賑やかな楽器の音とともに新たな映像が始まった。
「まだあったんだ、今度は何が始まる?」
ワクワクしてきたのか、大友が身を乗り出して画面にかじりついている。
斗楽がこっそり浅見を盗み見すると、表情は変わらず、黙ったままで画面を観ていた。
映し出されたのは高校生らしき野球部の試合だった。
応援席が映し出され、画面には三十人程の制服姿の生徒が、おのおの楽器を手にしている。 指揮者が指揮棒を振りかざすと、迫力のある演奏が始まった。
「これ、これも薫の歌だよなっ」
クイズの答えがわかったかのようなテンションで大友が叫んだ。
さっきの曲とは打って変わり、テンポのある明るい曲が会議室に鳴り響く。
曲の合間には北海道を思わせる高校名を全員が叫び、バッターボックスに立つ生徒を鼓舞している。
バッターは見事にヒットを放ち、演奏は鳴り止まずチェンジになるまでグラウンド中に溢れていた。
「お前の歌すごいよな。こんな若い子らにも知ってもらってて。これ、今年の夏の試合だぞ」
たばこを口にしようと持っていた箱をテーブルに置き、大友が浅見を見て言った。
浅見は画面に視線を預けたままだ。
すると今度はギターの音色が聴こえ、一人の青年が駅前らしい場所に立っている姿が映った。
青年はギターを弾き、全身から振り絞るような声で、行き来する人の足を引き止めるように歌っていた。
「これも薫の歌だ。俺この曲が一番好きだな」
画面に映る青年と一緒に、大友が口ずさんでいる。
「……振られる歌だけどな」
言葉数少なく浅見が答える。
ふと、斗楽が見つけたのは、無意識なのだろう、浅見の指が小さく動き、机をコツコツ叩いている仕草だ。
まるで、リズムをとるような……。
青年の前には数人の町人が足を止め、切ない歌詞の世界に共感しているのか、食い入るようにライブを観ている。
間奏に入ったとき、斗楽はまずい……と思った。
演奏と雨の音、それと周りの雑踏に紛れ、自分の声が微かに聞こえたからだ。
うわ、また俺ってば、やらかしてる。どうか、浅見さんが気付きませんように。
ドキドキしながら映像を見守っていると、大友が、「何か聞こえたな」と、浅見の方を見ている。
大友の問いかけに浅見も頷いていた。
ヤバい、ヤバい。聞こえちゃってる。
動画を止め──いや、せっかくのヤマトさんの歌を途中で止めるなんてできない。
斗楽がひとりで葛藤していると、「気になるな、巻き戻してみるか」と、大友がリモコンを手にし、数秒前に映像を戻してボリュームを上げた。
ちょと、そこの大脚本家先生。何をするんですかと、ツッコミを入れたくなる。
頭の中でセンターマイクに立つ自分を想像していると、画面は一分ほど前のヤマトのアップが映し出されていた。
サビを歌い終わるところから再生され、ギターの音色と一緒に自分の声が大音量で流されてしまう。
いや、朝日の声もするけれど、今、ここにいるのは自分だけだ。
今回の案件のリーダーを任された、斗楽しかここにはいないのだ。
『あ、雨だ。雨ですよ斗楽先輩』
『うわ、マジか。本降りになる前に朝日は先に帰れ』
演奏に混ざって聞こえてきたのは、ここにいる全員が声の持ち主を把握して聞いている。
『俺、傘買ってきますよ』
『平気だ。ヤマトさんも雨の中で歌ってるんだ、朝日は風邪ひいたら困るから先に帰れ』
『ダメですよ、斗楽先輩一人にできません。俺も残ります』
雨の中でストリートミュージシャンの『ヤマト』を撮影しながら、斗楽と朝日のやり取りが小さく録音されていた。
歌の後半の映像は、傘をさす数人の通行人とずぶ濡れの青年。
そして激しい雨の中での演奏で幕を閉じた。
「へー、君が斗楽君かな? 雨の中を最後まで撮影して、いい根性してるな。歌ってる彼もずぶ濡れだったけど、ビデオ回してた君もびしょ濡れになっただろう」
大友の視線をたっぷり受け止め、自身の失態に黙って頷く。
プレゼン用の画像に自分の声が入り込むなんて、初歩的なミスをまたしでかした。
失礼なやつだと思われ、CMの話ごと飛んでしまうかもしれない。
最後の映像が終わると画面には何も映し出されず、静寂だけが部屋を支配している。
斗楽は頭の中で、浅見が怒って部屋を出て行ってしまう妄想までしてしまった。
「全部いい映像だった。な、薫。当然、引き受けるんだろう。こんなプレゼンまでしてもらってんのに、自分の歌は必要ないってまだ言い張るのか」
大友の問いかけも耳に入らなのか、顎に手を添えて浅見がジッと考え込んでいる。
「過去のことを含めて『浅見薫』なんだ。一人で地道に乗り越えようとしなくても、勢いっていうか、誰かに背中を押してもらってもいいんじゃないのか」
さっきまでふざけた口調だったのに、急に真面目な顔で大友が言うから、斗楽も桜田も口を挟めなくなってしまった。
「えっと、斗楽君だっけ? 君は本当に薫の歌が好きなんだな。仕事とはいえこれだけの動画を探すのも大変だっただろう。青森や北海道ってさ」
「い、いえ。そんなことは……」
正直、探し出すのにそれほど苦労はなかった。
なぜなら浅見薫の歌は、あらゆる場面で歌われていたからだ。
若い世代から同世代、斗楽の父のような年齢のファンからも熱望されていて、歌はそこかしこに溢れていた。
固唾を飲んで待っていると、浅見と目が合い、微かに微笑まれた。
極上の笑みを向けられて平気な人がいたら会ってみたい。
それほど、浅見薫の微笑みは破壊力があった。
憧れの人の歌声を数秒でもいいから、待っているファンに届けたい。
何より、雪村酒造が会社を挙げて開発した新商品は、浅見のイメージにピッタリなのだ。
祈るような気持ちで待っていると、デッキからディスクを取り出した大友が、見てみろと、浅見の目の前に突きつけている。
大友の不可思議な行動に最初は何をしているんだろうと、首を傾げていたけれど、ハッと気づき、斗楽は恐る恐る浅見の方を一瞥した。
調子に乗って、ディスクに『全て最高の歌です』、なんて書いてしまったのを思い出したのだ。
斗楽の視線に気づいたのか、浅見がチラッとこちらに視線を投げてくる。
ドキッとして、また目が眩みそうになった。
「……全て最高の歌、か」
浅見の唇が微かに動き、何か言葉を放ったのに、タイミングよく鳴った大友のスマホで斗楽には聞こえなかった。
やっぱり大友は悪魔だったのかもしれない。
ともだちにシェアしよう!

