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第15話

 初めて恋人ができた。  それも、ずっと憧れていた人と──。  だからわかっていた。簡単に会えるわけじゃないってこと。  浅見と最後に会ってから、一ヶ月近く経つ。  それでも斗楽の日常は、何ひとつ変わらなかった。  平気、平気。寂しさなんて想定内だ。  休日にどこかへ出かけられないのも、メッセージの頻度が少ないのも、全部わかっていたこと。  アパートは、三階建ての古い和モダン。  エレベーターには年季の入った防犯カメラがひとつ。  八畳の部屋に、小さなキッチン。派手さはないけれど、住み心地は悪くない。  今日みたいな夕焼けも、ベランダから眺めるとちょっとした絵画みたいで──。 「ほら、こんな景色をひとりじめできるなんて、贅沢だよね」  独り言を言いながら、小さく笑ってみせたけど、喉の奥に残るのは少しの空虚さだった。  ソファに座って小説を開いても、目は何度も同じ行をたどっている。  ページが進まないまま、窓から差し込んだ夕日がそれを教えてくれた。  「あ、もうこんな時間か。洗濯物取り込まないと」  わざと声にしてベランダに出た。  外は春手前でも、まだ突き刺すような風が髪をかき乱してくる。  ぶるっと身震いした斗楽は、手早く洗濯物をかき集めて窓を閉めた。  そのあと、夕食と風呂を早々に済ませ、撮り溜めていたドラマを再生した。  けれど、途中から集中できなくなってしまった。  雪村酒造のCMが流れたからだ。  歌声がスピーカー越しに流れてきた瞬間、鼓膜よりも心臓の方が早く反応した。  逢いたい、という気持ちが暴れだす。  焦がれる気持ちを持て余していると、果たして本当に浅見と付き合っていると言っていいのだろうかと疑問が湧いてくる。  やっぱり夢? いや、妄想かも……。  そうだったら、自分は相当ヤバい人間だ。  あー、もう! 何も手につかない。  こうなったら寝ちゃえと、抱えていたクッションを投げ捨てたタイミングで、スマホがメッセージを知らせる  きっと実家からだな……。  また米か何かを送ってくれたのかなと、何気なしにスマホを掴んだ斗楽は、画面を見て固まった。  夢ではないことを確かめるよう、もう一度名前をよく見る。  浅見さん……だ。  斗楽の頭の中で盛大な祭囃子が鳴り響き、思わず手からスマホを落としそうになった。 『斗楽君、家にいる? 今からそっちに行ってもいいか』  一文字一文字、丁寧に読み取っていく。  活字の数だけ、脳内で幸せの鐘が鳴った。  じわじわと嬉しさが込み上がり、さっきまでの鬱々した気分は吹っ飛んだ。  情けないほど表情筋を緩ませたけれど、それは一瞬で焦りに変わった。 「ど、どうしよう……浅見さんが……うちに……? えっと、えっと……片づけ──いや、先に返信だっ!」  平常心が一気に粉砕しながらも、返信したまではよかった。  それなのに、また、スマホを握り締めたまま、熊のように部屋でウロウロしてしまった。  俺ってば、なにやってるんだ。早くしないと、浅見さんが来る!  我に返ると大急ぎで部屋を片づけ、パーカーとジョガーパンツに着替えたところでインターホンが鳴った。  跳ねるように玄関まで行き、ドアを開けると、浅見は笑っていなかった。  黒ぶち眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ厳しく見える。  え、怒ってる……? 俺、何かした?  理由がわからず、斗楽はおずおずと「こんばんは……」と口にした。 「……だめだろ、斗楽君」  ドアを閉めながら、浅見が低く言う。 「今は俺だからいいけど、確認せずにドアを開けるなんて、危ないだろ」  思わぬ理由にポカンとしてしまう。 「す、すいません。でも俺、男だし……」 「関係ない。今は男でも狙われる時代なんだぞ。君みたいな可愛い系男子なんて、特に」  言い終えると、ふっと優しい眼差しにもどった浅見の手が斗楽の髪に触れた。  頭を撫でるだけのしぐさが、こんなにも胸に沁みるなんて思わなかった。 「はい……気をつけます」  自然と笑みがこぼれ、斗楽はその余韻が残る髪に、そっと指を添えてみる。  これって、付き合ってるってこと、だよな……。  まだ実感が湧かないけれど、自分の部屋に浅見がいることは現実だ。  斗楽は甲斐甲斐しく浅見のコートを預かると、ハンガーにかけて珈琲でいいですか、と声をかけた。 「珈琲か。俺が淹れよう」  予想外の申し出に思わず、「浅見さんが?」と叫んでしまった。 「昔、バンド組んでたとき、それだけじゃ食えなかったから喫茶店でバイドしてたんだ。そのときに珈琲の淹れ方を覚えたんだよ」 「浅見さんにもそんな時代があったんですね。じゃ、お願いしていいですか」  任せとけと言って、浅見がキッチンに立っている。  浅見がいるだけで見慣れた場所が、有名ホテルのキッチンより輝いて見える。  しかも、浅見薫が淹れた珈琲を飲めるなんて、この時間ごと、瓶に詰めて冷蔵庫に入れておけたらいいのに──  そんな馬鹿げたことを、本気で思ってしまう。  珈琲豆をミルに入れる姿を見つめていると、視線に気づいたのか、浅見がふっと微笑んでくれた。  けれど、なぜかその笑顔が少しだけ遠く感じた。  声も届くし、触れられそうな距離にいるのに、透明な何かが二人の間にある気がする。  気のせい──そう思おうとしても、さっき眼鏡を外して目頭を押さえていた姿が脳裏に残って離れない。 「浅見さん、お仕事忙しいですよね。体は大丈夫ですか?」 「ああ、平気だ。少し寝不足なだけ」 「……無理しないでくださいね」 「平気だ。斗楽君の顔を見たから、回復したよ」  嬉しい言葉なのに、どこか台本を読んでいるように聞こえてしまう。  その微笑みの奥に、見えない何かを隠している……そんな気がした。  靴の中に入った小石のような、そんな小さな違和感が拭えない。  コーヒーが完成すると、浅見がふと手を止め、「そうだ」と呟いた。  鞄に手を伸ばし、小さな箱を取り出して斗楽に差し出す。 「これ、斗楽君に」 「え、俺にですか?」 「そう。開けてみて」  赤いリボンが巻かれた小箱。  丁寧にリボンを解いて、蓋を開けると、黒いビロードの巾着が現れた。  中に入っていたのは、細い石が連なった、繊細なループ。 「……これ、アンクレット?」 「ああ」  浅見がコーヒーをひとくち飲みながら頷いた。 「……すごく綺麗だ」  光に透かして、繊細なカットの石がきらめくのを眺めていると、浅見がデニムの裾をまくり、自分の足首を斗楽に差し出してきた。 「お揃いだぞ」  チラリと覗いたふくらはぎ。  引き締まった足首に、同じ石が静かに輝いている。 「……浅見さん」  息を呑むほど綺麗だった。  けれど、それ以上に──その〝印〟が、浅見のそばに自分がいることを示してくれているのが、たまらなく嬉しい。  浅見のアンクレットは、オニキスがメインのシックなデザイン。  斗楽の方はターコイズ、ラピスラズリなどのブルー系で、黒と青の相対性がコンセプトらしい。 「嬉しいです! ありがとうございます」  ジョガーパンツの裾を上げて着けようとしたら、「俺が着けてやろう」と、足首を掴まれた。  下半身を拘束されると、裾をグイッと捲られる。 「あ、浅見さん。自分でやりますから」 「いいから、いいから。斗楽君はされるがままでいなさい」  性感帯ではないはずの場所なのに、浅見に触られると熱っぽくなって汗がじわりと滲む。  長い指と小さな石に、目眩のような陶酔を味わっていると、「間違っても右足に着けるなよ」と言われた。 「え、どうしてですか」 「右に付けると恋人募集中。相手がいますって印が左だ。って定員が言っていた」 「相手が、いますって、しる……し」  噛み締めるように呟くと唐突に鼻を摘まれた。 「斗楽君は俺の恋人だろ」  耳元でそんなことを囁かれると、危うく脳しんとうを起こしそうになる。  反則行為に抗議したかったけれど、既に手遅れだ。  要救助者確保、と叫ぶ幻聴まで聞こえてくるのだから。  好きすぎる人に触れられ、甘い言葉をかけられ続けたら心ごと溶けてなくなりそうだ。 「本当は指輪にしたかったけど、お互い着けられないだろ? でも足だと会社にも着けていけると思ってね」 「めちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうございます、こんな高価なものを……。俺、大切にしますっ」  足首で輝く青い星々を、愛おしい気持ちで触れた。 「斗楽君は俺のだって証だからな。じゃないと、他の奴が君の頭を撫でるのは許せないからね」  頭──とは、何のことだろう。  首を傾げていると、「昼間、見たんだ……」と浅見がポツリと言う。 「今日、カフェで男と笑ってただろ」 「え? カフェって……あっ! あれ、見てたんですか!?」  驚いて身を乗り出した斗楽の目を、浅見はすっと伏せる。 「信号待ちでな。斗楽君の頭撫でたりなんかしてて……いい雰囲気に見えた。だから、ちょっと、妬いた……」  嫉妬、なんて。  そんな感情を浅見が自分に抱くなんて、思ってもいなかった。  嬉しさよりも先に戸惑いが勝って、返事をするタイミングを逸してしまう。 「あ、あの人は、日下部さんは俺の上司ですっ。それに、あれは──」 「そうか……そいつ、日下部っていうのか。覚えとく、か」  いたずらっぽく笑う浅見の顔を見て、斗楽はようやく少しだけ力が抜けた。  信じられない気持ちで浅見を見つめていると、ふいに足首にやさしい感触が戻った。  浅見の指が、先ほど着けてくれたアンクレットの石をなぞっている。  熱が、じわじわと伝わってくる。  思考がまた霧の中へ沈んでいき、言葉はどこかに消えた。  今はただ、大好きな人がここにいる──そのことだけが、すべてだった。  斗楽はそっと、浅見の横顔を見つめた。  その姿があまりにもまぶしくて、怖いくらいに愛しくて。  息を呑んだまま、何も言えなかった。 「俺は、斗楽君といると気持ちが楽になる。初めて会ったときも、CMの仕事のときも、君がいたから笑えた。……腹の底から笑ったの、何年ぶりだったかな」  眼差しは確かに斗楽にある。それなのに、胸に巣食う暗雲が消えない。 「だから、これはそのお礼。会えない分まで、少しでも伝えたかっただけ」  浅見の言葉に何となく引っかかりを覚える。  笑ってほしいとは思うけれど、見返りを求めたからじゃない。  斗楽がそこを素直に喜べないのは、恋人として自分が半人前だからだろうか……。 「……浅見さんは忙しい人だから、今日みたいに時間を作ってもらえるだけで嬉しいです。一緒に過ごせるだけで俺は幸せですから」 「斗楽君は俺を独り占めしたくはないのか? 君は俺のなに? ファンの一人?」 「し、したい……です」  真顔で聞かれたことに、勢いよく言ったけれどそれは初めの文字だけで、最後は言い淀んでしまった。    自分だけの浅見さんでいて欲しい。けれど、それは無理だ。浅見さんは、ファンの……みんなの浅見さ──  頭の中で悶々した言葉を唱えていたら、浅見ひ体を引き寄せられていた。  頼り甲斐のある腕の中に包まれていると、 「いつまでファンなの」と、甘い叱責が耳に落とされる。  「ファン、は……ずっと、です。でも、今は浅見さんの、こい……びとです」  大それたことを口にしてしまった。 ……でも、本当に〝恋人〟って言っていいのか。  浅見さんの瞳は、どこか遠くを見ているようで。   「もっと堂々と言って欲しいな。俺は斗楽君のものだって」  水の膜が張ったように聞こえる浅見の声。  抱きしめられているのに、心までは抱かれていないような、そんな気がしてならない。  浅見からの『好き』の二文字がないまま、付き合っていると言っていいのだろうか。  抱き締められていても、贈り物をもらっても、どこか一線を引かれているように感じる。  心に小さな穴が空いていて、そこから冷たい風が体の内側を冷やしていく。  そんな、冷めた感覚がずっと拭えない。 「浅見さん……いつか、あのお酒を一緒に飲んでくれませんか?」  不安な気持ちを払拭しようと、指差したのは雪村酒造の日本酒だった。  浅見の視線が飾り棚に向くと、腕の拘束からすり抜けた斗楽は、真っ青なボトルを手にした。 「このお酒、俺の宝物なんです。ラベル、折り鶴なんですよ。浅見さん、気づいてました?」  赤と青の折り鶴が重なり合ったラベルを、浅見に見えるように向けて言った。 「折り鶴か、そういえばそうだったな……」  心なしか浅見の顔が歪んだように見えた。  斗楽は唇を引き結び、気のせいだとやりすごして話を続けた。 「待ち合わせの目印もラベルも折り鶴で、俺、すっごく感激したんです」 「……まだ持ってたのか」と、浅見が飾り棚の上にちょこんと乗った折り鶴を見ている。 「当たり前ですよ、浅見さんが作ったんですよ、超、特別です」  斗楽は折り鶴の横に瓶を戻すと、二つを愛おしそうに眺めた。 「……実は、折り鶴って、俺にとって母との思い出なんだ」  思いがけない話の切り出しに、斗楽は肩を並べるように座り直して耳を傾けた。 「俺が八歳の時に母は事故で亡くなったんだ。父は生まれたときにはいなかったから、母が朝から晩まで働いて養ってくれたよ。貧しかったから贅沢なんて出来なくて、チラシで折り紙を折ったりしてた。だから母が生死を彷徨ってるとき、願いを込めて千羽鶴を作ったんだ。結局、間に合わなかったけどね」  その名残りでついね、と浅見が回顧に浸っている。  遠くへ向く視線があまりにも寂しげに見え、斗楽は浅見の手を無意識に握り締めていた。 「……間に合わなくても、浅見さんの気持ちはお母さんに伝わったと思いますよ」 「どうだろうな。俺が完成させていれば助かったかもって思いもしたけど、俺はそれどころじゃなかったからな。身寄りがいない俺は施設に行くことが決まって、いつまでも悲しんでいられなかったし」 「たちって……」 「……妹がいるんだ。二つ下の」  一瞬、言葉を選ぶように浅見が口を閉ざし、目を伏せた。  その表情に、斗楽は理由のわからない胸騒ぎを覚えた。  浅見の瞳に差した翳りに、斗楽は一歩踏み込むことができなかった。  ただ、そっと手を握ることで、寄り添うことしか。 「二年間くらい施設で過ごしたころ、妹に養子の話があって離ればなれになってしまったけどね……」 「じゃ浅見さんは、そのときから一人で……」  握っていた手に力を込めた。  すると反対に握り返され、存在を確かめるように指先で手の甲をなぞられる。 「施設ではよくあることだ。で、高校のときにバイト先のカラオケ屋で歌っていたら、客できていた今の事務所の社長に気に入られて拾ってもらったんだよ」  浅見は話すつもりなんてなかったのかもしれないけれど、斗楽は嬉しかった。  浅見薫が生み出す歌の根源が、生い立ちにあるように思えたからだ。 「デビューが決まったときは、嬉しさより安心のがデカかったな」  そう、笑って言うけれど、その表情は悲しみを必死で耐えているように映った。  大人で有名な俳優でアーティスト。  でも今、目の前にいる人は、千羽鶴ができなかったことを悔い、妹と離れて一人ぼっちになった幼い子どものように見える。  斗楽は立ち上がると浅見の正面に座り直し、首に腕を回して逞しい体に抱きついた。  まだ自分は芸能人の『浅見薫』しか知らない。  それでも今日のように、少しずつでもいいから一人の男性としての顔を見せて欲しい。  浅見の全てを慈しむように抱き締めた。  斗楽の気持ちを察したのか、それともただ欲情しただけなのか、強い力で抱き返される。  耳元に浅見の唇が触れ、吐息混ざりに囁かれた。 「斗楽君がほしい……」  耳元で落とされたその一言が、胸の奥に火を灯す。  震えるような鼓動とともに、斗楽はそっと目を閉じた。

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