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第19話

 浅見がバリへ旅立って、二週間目の週末を迎えていた。  定時退勤した斗楽は、仕事帰りによく利用する居酒屋の個室席に一人で座っていた。  槙が話があると言って、夕食に誘われていたからだ。  本当は断りたかった。  でも、槇のまっすぐな声を聞くと、弱っている自分を見せてはいけない気がした。  店内はザワザワと賑わっているのに、その音が斗楽にはくぐもって聞こえる。  スタッフが客を迎える声や、賑やかな酔客の声も届いているけれど、テレビから聞こえているように感じる。  体から心が抜け落ち、意識だけが浮遊している感覚だった。  どこを見ても焦点が合わず、店までどうやって来たかもわからない。  午後に届いた一通のメール。  その文字を読んでから、崩れそうな気持ちを必死で奮い立たせ、なんとか仕事をこなした。  一刻も早く帰りたいのが本音だったし、早く一人になりたかった。  現実を受け止める時間を作りたかった……。  けれど、『大切な話がある』と、いつになく深刻な顔で言った槇を放ってはおけなかった。  本当に、全部夢だったのかもしれない。あの言葉も、あの時間も、きっと幻。  奇跡でも運命でもなかったんだな……。    込み上がるものが確かにあるのに、それを浄化してくれる涙は出てこない。  夢でも見ていたんだと、そう思い込むことしか斗楽は思いつかなかった。 「斗楽、ごめんお待たせー」「斗楽先輩、遅くなりました」  店にやって来た二人の声が重なって、ふっと現実に引き戻された。 「お疲れ」と、短い言葉で二人を労う。 「ちょ、ちょっと斗楽、どうしたのっ」  席に着いた途端、槇が叫んでいる。  何をそんなに驚いているのかわからず、ボーッとしていると体を揺さぶられた。  心配そうな目が、斗楽の前で揺れている。 「斗楽先輩、もしかして体調悪いんですか?」  朝日の声が聞こえて、ゆらりと声の方を見た。「平気だよ」と、簡単な返事をする。  一瞬、二人に話を聞いてもらおうか。そう思って口を開きかけたけれど、音になる前に言葉を飲み込んだ。  話したところで、何も変わらないことがわかっているから。 「ねえ、斗楽。何かあったの?」  槇に問われた。 「何でもないよ」と答える。これが精一杯だった。  しっかりしないと変に思われる。  それだけはわかっているから、頭の中で自分に気合いを入れた。  顔中の筋肉を駆使して笑顔を作り上げ、「腹が減り過ぎただけだから」と、嘘を吐く。  自分が今どんな顔をしているのか考える余裕もなく、二人を強引に説き伏せた。  しっかりしろ。周りの人を笑顔にしてこそ、自分は価値のある人間になれるんだろ!  オーダーした飲み物が運ばれると、三人はグラスを片手に乾杯をした。  ハイボールを一気に飲み干し、「で、話って?」と、まだ心配顔の槇に声をかけた。 「うん、話すけど……。それより、今日ピッチ早くない?」  一杯目のグラスがほとんど空になっている。  普段から斗楽の飲み方を知る槇が心配してくれている。  今の斗楽には、その優しさが嬉しいけれど、苦しい。 「そんなことないよ。なあ、それより話は?」  空きっ腹に勢いよくアルコールが浸透し、体が熱くなってくるのがわかる。  酔ってしまえば、悲しみが緩和される気がした。  こんなとき、お酒ってありがたい。 「マジで顔赤いですよ、斗楽先輩。平気っすか?」  心配する槇と朝日をよそに、斗楽は二杯目のハイボールを注文した。  親友と後輩が首を傾げている。お互いの顔を見合わせた二人が、緊張した面持ちになっていった。 「あのね、実は私たち……付き合ってるの」 「ほ、本当に!?」  思わず立ち上がってしまった。眩暈がして、テーブルに手をつく。 「よかった……ほんと、よかった。おめでとう」  そう言ってグラスを掲げたけれど、手は微かに震えていた。 「……大丈夫なの、斗楽。なんか泣き出しそうな顔してるよ?」 「全然、平気。──でも、今日、実家から荷物届く予定だったの忘れててさ。ちょっと早いけど先に帰るね」  グラスを置きながら、笑顔の仮面を崩さないように言った。そうするのが精一杯だった。 「本当に……?」  不意に槇の目が鋭くなり、斗楽は視線を外す。  さすが親友……。  ちょっとした変化に気付いてくれる。けれど今日はそこを晒すわけにはいかない。  槇と朝日には、幸せな気持ちで過ごしてほしい。 「野菜とかだと思うから、余り時間おきたくないんだ。ごめん、せっかくの誘いに」  「そっか……うん、わかった。気をつけてね」 「ごめんな、楽しかったよ」  軽く笑って手を振ると、斗楽は店をあとにした。  二人の幸せを自宅まで帰る原動力に、アスファルトを踏み締める。  心の中の雨音に、傘をさす余裕はもうなかった──。

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