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第20話

 アルコールに弱いくせに、いつもより飲んでしまった。  その証拠に、足は前に進もうとしているのに、右へ左へとふらふら浮遊している。  食欲がなくて、無理やりヨーグルトを押し込んだだけの昼食。  それ以降は何も喉をとおる気も起きず、さっきの居酒屋でもアルコールばかり飲んでいた。  体調が悪いわけでもないし、仕事で失敗したわけでもない。ただ、心が苦しかった。  最寄駅までがいつもより長く感じる。  歩く気力が底を尽きた斗楽は、歩道に連なるカフェの前で佇んでいた。  ふと、横を見ると道路際に植え込みを見つけた。  斗楽は縋るように(へり)へと座り込んだ。  夕食どきだったせいか行き交う人はまだ多い。  店も賑わって灯りが煌々と歩道を照らしている。そんな中、斗楽は鞄を膝に抱え、楽しげに歩く人波を眺めていた。  槇の幸せそうな顔を思い出し、本当によかったと噛み締めていると、鼻の奥がツンと痛くなってくる。  以前から槇が朝日のことを気にしていたのは知っていたけれど、本人から相談されたわけでもないのに、自分から聞くことはできなかった。  人の気持ちなんてわからないし、移ろいやすい。  斗楽はスマホを取り出すと、浅見と交わした言葉のやり取りを読み返していた。  浅見がバリへ旅立ってから、一度も連絡はない。  最初は忙しいからだと言い聞かせていたけれど、そうじゃなかった。  スクロールしていると、午前中に届いたバリからのメッセージで斗楽の指が止まる。  ──もう会わない、ごめん──  短い別れの文章を、もう一度、読み返した。  待ちに待った浅見からのメッセージは、二人の関係を終わらせるものだった。  画面に水滴がポタポタと落ち、雫が滑って地面に吸い込まれていく。  バリで何かあったのか。それともただ斗楽に飽きたのか。  元々、最初から本気ではなかったのだろうか。  どれも当てはまると思えたのは、浅見から大切な言葉を聞かされてないからだ。  居酒屋で我慢していたせいか、流涙が止まらない。  壊れた蛇口のように、拭っても拭っても涙が溢れてくる。  俺ってば偉い……。二人の前でよく耐えたよ。  鼻水をズズっと啜り、斗楽は自分で自分を褒めた。  せっかく二人の想いが通じ合ったのに、本当は潰れるまで三人で飲んで、二人の惚気話を聞きたかった。  けれど、どうしても耐えきれず先に店を出てしまった。 「今日が金曜日でよかった。週末、がんば……って回復して。きっと、月曜には笑え……る……」  涙声で呟くと、斗楽はくるぶしに触れてみた。  ──お守りにならなかったな……。  お揃いだからと、浅見が着けてくれたアンクレット。  小さな石たちが、滲んで見える。  足首に触れた浅見の手。  恋人の証だと着けてくれた石が、今は氷のように冷たい。  何年も憧れていた気持ちは、浅見と出会ったことで一瞬にして恋に変わった。  大好きな人が自分と同じ気持ちをくれた──  でも、そうじゃなかった。  ただ、それだけのこと……。 「迷惑かけないって約束したしな……」  浅見と初めてキスした日のことを思い出して、また涙が止まらなくなった。  逞しい腕の中で初めての喜びを知り、震えるほど嬉しかったのに、それは自分だけだった。  賑やかな街の中で、海底に沈んだように体は重くて息も苦しい。  逢いたい、逢いたい、逢いたくて仕方がない。  でも、もう……逢えない。  浅見のいない世界を一人で彷徨い、一緒に過ごした時間を想い出に変え、ここから先は唇を噛み締めて生きるだけ。  スマホを額に押し当てたまま瞳を閉じると、忘年会の日に初めて浅見と出会ったときから、体を重ねた甘い夜を思い出してまた涙が伝う。  植木に埋もれたまま動けずにいた斗楽は、泣きはらした目で夜空を見上げた。  東京の空とバリの空は繋がっていても、浅見と斗楽の想いは途絶えてしまった。  朝と夜のように、太陽と月のように、二人はもう出会うことはない。  斗楽は前屈みになると、アンクレットを外して鞄の底に沈めた。  肌に触れていたときの冷たさは、外したことで一層肌を冷やてくる。  それは、斗楽の全てを凍らせるものだった。 「……大丈夫、俺は大丈夫だ。また、月曜になれば笑え、る……」  暗示のように言い聞かせても、心が言うことを聞いてくれない。  辛く、苦しい声が微かに溢れたけれど、週末の喧騒がその音を掻き消してくれた。  灯りに照らされた歩道の片隅で、斗楽は身じろぎもせず、ただ時間だけをやり過ごしていた。  頬を伝う涙のぬくもりが、夜風にさらわれて消えていく。  それでも、動けなかった。 「……去来川?」  名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。  視界の中に現れたのは、スーツ姿の男性──日下部だった。 「やっぱり、去来川だったか」  柔らかな声。けれどどこか、心配を含んだ響き。  泣き腫らした目を見せるのが怖くて、斗楽は視線を逸らす。  黙っていると、彼はゆっくりと歩み寄り、すぐそばに腰を下ろした。 「……こんなとこで何してる。具合でも悪いのか?」 「……いえ。ちょっと、飲みすぎただけです……」  掠れた声でそう答える。  でもきっと、ごまかしきれていない。日下部には。 「遠くからお前が立ち止まってるのが見えた。動かないから……気になってさ」  そこで小さく息をつき、冗談めかして笑った。 「まさか、飲みすぎだったとはな」  何も言えないまま、斗楽は黙っていた。  日下部はすべてを察している。  けれど理由も聞かず、ただ隣に座ってくれていた。  やがて、日下部は何でもないような口調で重役会議の話をし始めた。  社長に褒められただの、クライアントに喜ばれただの、夏のボーナスが楽しみだの。  どれも、斗楽を笑わせようとしてくれているのがわかる。  その優しさに、思わずくすりと笑う。  ふと顔を上げると、自然と視線が日下部に向いていた。  まだ涙の跡が残っていたはずなのに、不思議と恥ずかしくない。  むしろ、この人には見せてもいいかもしれないと思った。  目が合った瞬間、日下部の手がそっと伸びてきて、斗楽の髪をくしゃりと撫でてくる。 「……日下部さん」 「あー、社長に褒められると機嫌いいわ。なあ、去来川。このあと予定ないなら、飲みに行こう。いい店、知ってる」  からかうような口調のくせに、言葉には確かな温かさがあった。  そのまま斗楽の腕を取って、自然な仕草で立たせてくれる。 「え、飲みに……ですか?」  戸惑う斗楽の返事も聞かず、日下部はやってきたタクシーに手を挙げた。  ドアが開くと、「ほら、乗った乗った」と背を押され、斗楽はされるがままに座席へ。  すぐ横に、日下部も乗り込むと、閉じ込められるように互いの体が密着する。 「あの、日下部さん……」 「……何があったかは聞かない。話さなくていい。けど、今のお前を一人にしとくのは……俺が嫌だ」  その声は、いつもの上司のそれとは違っていた。  静かで、優しくて、どこまでも甘やかすような響きだった。 「日下部……さん……」  斗楽が言葉を探す前に、日下部が自分のコートを脱ぎ、斗楽の肩にそっとかけてくれた。  温もりが布を通して伝わる。  それはただの防寒ではなく、「ここにいるから」そう言ってくれているようだった──。

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