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第21話
朝のラッシュを抜けたころには、ようやく頭が働き出していた。
酔いも、少しだけ、抜けた気がする。
──でも、記憶はまだぼんやりしてる。
日下部さんに連れて行かれた店も、あまり思い出せないな。
気づいたら、知らない部屋のソファで寝ていて──
肩には、ふわっと毛布が掛けられていた。
「……まったく、手がかかるな」
夢だったのか、それとも本当に言われたのか──曖昧なまま、耳の奥に残っている声。
確かに、あの夜の温度はやさしかった。
優しさをもらって、少しだけ元気になった。それなのに、斗楽の気持ちはまた急降下してしまった。
心にできた傷は、朝のニュースで塩を塗られたみたいに傷は悪化した。
会わないって意味を、テレビの報道で知ってしまったからだ……。
〝浅見薫の交際相手は、九条 グループ後継者、九条文乃 〟
バリでスクープされたこの記事は、朝のどの番組でも取り上げられていた。
忘れることなんて無理だとわかっていた。けれど、追い討をかける報道は辛すぎる……。
癒えることなく、ダラダラと血を垂れ流す傷口は、今朝の報道で一刀両断されてしまった。
この傷は簡単には治らない。
自覚してしまうと、斗楽は自嘲めいた笑みで強がってみた。
憧れの人と巡り合い、恋をした。
ちっぽけな自分が、光り輝く存在の目に映った。
けれど夢のようなひとときは儚く散り、住む世界が違うことを思い知っただけ。
ぼんやり歩いていると、オフィスのビルに着いた。
別のことを考えていても、体が覚えていてこうして運んでくれる。
仕事人間ってわけでもないのに、習性は凄いなと笑ってしまった。
「おはよう、去来川」
エレベーターを待っていると、背中に聞き馴染んだ声がして振り返った。
びくりと肩が跳ねてしまう。
「く、日下部さん……お、おはようございます」
ぎこちなく頭を下げると、相手はいつも通りの涼しい顔で、コーヒーの紙カップを掲げている。
「……週末は、悪かったな。勝手に無理に連れてって」
「いえっ、そんな……ごちそうさまでした。あの、毛布とかも……ありがとうございました」
斗楽がそう言うと、日下部は一瞬だけ何かを言いかけて、そしてやめた。
「ああ。……体調は、大丈夫そうだな。でもあんま無理すんな、たまには息抜きも必要だ」
そう言って、到着したエレベーターに日下部が乗り込む。
慌てて斗楽も追いかけると、頼れる上司が微笑みとともに斗楽を待っていてくれた。
二人だけの箱の中は、日下部が発する思いやりで満ちている気がした。
金曜の夜の出来事を、やっぱり日下部は聞いてこない。
メール、そして朝の報道。それらが斗楽を悲しみへと突き落としたけれど、優しい上司に救われた気がする。
凍えた体に温もりを与えてくれた背中に、斗楽は呟いた。ありがとうございます、と。
目的の階に到着すると、「じゃ、今日も頼むぞ」と言って、日下部が自席へと向かった。
前を歩く背中を、斗楽はそっと見送った。
ちゃんと仕事しよう。
いつまで引きずっていてはダメだ。
優しい上司に恥じないよう、油断すると泣きそうになる目頭をグッと抑え、鞄を強く握りしめた。
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