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第24話

「あれ、去来川さんじゃないですか? お久しぶりです」  聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、振り返ると桜田が手を振っていた。 「桜田さん、お久しぶりです。こんなところでお会いするなんて」  風邪から復活して数日後。  付き合いのある出版会社の創立記念パーティーへ、赤坂の代理で出席していた斗楽は、グラスを掲げている桜田に会釈をした。 「元気ですよ。桜田さんはお仕事忙しくて大変なんじゃないですか?」  雪村酒造の仕事以来の再会で、斗楽と桜田は互いの近況報告を和やかに交わした。 「実は、浅見も今日出席する予定だったんですけど、急に仕事が入ってしまいましてね」 「そ、そうでしたか。浅見さんはお忙しい……方ですからね」  つい、浅見の名前に反応してしまう自分が情けない。  全然忘れられていない心が哀れだ。 「そうそう、浅見といえばちょっと前、大変だったんですよ」 「大変? 何かあったんですか? もしかして怪我とか──」 「いえいえ、体調は問題ないです。実はこの間、撮影でバリに行ってたんですけどね、浅見が向こうでスマホをなくしちゃって。こっちも用事があって連絡してるのに、全然繋がらないから焦りましたよ」 「ス、スマホをなくしたんですか!」  思わず叫んでしまった。  斗楽の声が思った以上に大きかったのか、桜田が一瞬瞠目したけれど、すぐに続きを話してくれた。 「そうなんですよ、もう困っちゃいました。バリについて一週間ほどしか経ってないのに、事故とか事件に遭ってしまったのかと、ヒヤヒヤしましたよ」 「だ、大丈夫だったんですか? 浅見さんは」  不安を隠しきれない斗楽を不思議そうに見ながら桜田が、ビールをひと口飲んで続けた。 「ええ。浅見のマネージャーには連絡ついたんでホッとしましたよ。けど、スマホがないと不便でしょう? 外国で紛失すれば戻ってこないと本人も諦めてたんです。ところがですよ、日本に帰ってからスマホが戻ってきたんですよ。予想もしないところから出てきて驚きましたけどね」 「予想もしないとこ?」  話の波に乗ってきたのか、桜田がミュージカルのように、身振り手振りを付けて説明してくれる。 「ええ。同行していたスタッフが見つけたらしいんですけど、宿泊先のホテルのゴミ箱から出てきたんですよ。画面も割れていて酷い状態でしてね、あれは故意かもしれないですね」 「故意?」 「いや、わかりませんけどね。何か硬いもので画面を割ったみたいな。データーもぶっ飛んじゃってて、修復は不可能でした。浅見のものと知って傷つけたのかも不明だし。で、戻ったらあのスクープでしょ? 浅見も踏んだり蹴ったりでしたよ」  桜田がため息とともにそばにあった椅子へと腰を下ろした。 「あと、これはオフレコでお願いしたいんですが、すっぱ抜かれた写真はで一緒に写っていた女性は、幼少期に離れ離れになった浅見の妹さんだったんですよ」 「い、妹さん?」 「そうなんです。ただ、兄妹なのは極秘なんです。去来川さん知ってますか? 世界にも名を轟かせるホテル王と異名された、九条京一郎(くじょうきょういちろう)を。妹さんは彼の孫なんですよ。まぁ養子らしいんですけどね」  桜田が肩をすくめながら、「有名人を兄に持つから伏せてるんですかね」と、呆れた声で言う。  そのとき彼のスマホが鳴り、会場の外へと行ってしまった。  一人になった斗楽は足に力が入らず、柱に寄りかかった。  手にしていたグラスを、ギュッと掴む。  バリで何があったのか、本人からは何も聞いていない。  それは、自分が弱くて会うことを拒んでいるからだ。  なによりメールの内容が頭から離れず、心にはまだ靄がかっている。  聞いたばかりの話を咀嚼しても消化しきれず、味わった悲しい思いだけが残っていた。  取引先や同業者に声をかけられても意識が浅見に囚われ、取り繕った笑顔だけでやり過ごしていると、いつの間にか催しもお開きになっていた。  役目を終えて会場をあとにしようと踵を返した斗楽の目に、愛しい人が映った。  賑やかな会場に溢れる人山から、どうして彼の姿を見つけてしまえるのだろう。  スーツが映える、完璧な逆三角形のスタイルに秀麗な相好。  黒縁の眼鏡をかけて素顔を隠していても、そのアイテムさえも彼を引き立てている。  女性だけじゃなく、男性の視線さえも奪う浅見の目は、真っ直ぐ斗楽だけを見つめていた。 「やっと会えた……」  変わらない優しい笑顔で、浅見が近づいて来る。  甘くて低い声が、懐かしい。  周囲のざわめきは遠く、浅見の声だけが鼓膜を打つ。  けれど心は、まだ現実を受け止めきれていなかった。 「あさみ……さん」  手が震えてグラスを落としそうになる。  足も震えて、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。  逢いたかった、逢いたくて仕方なかった。でも、会うのが怖かった。  浅見を見つめていると、胸に巣食う感情が悲しいのか、怒っているのか、それとも嬉しいのか、ぐちゃぐちゃで何もわからない。  わかっているのは、浅見を好きだということだけ。 「斗楽君が来てるって桜田さんから聞いたから……。体調はもうよくなったんだな」  仕事だったのに俺がいるからやって来たと、言ってくれる……。  愛しい人の言葉に喜ぶ自分を、別れの文字が諫める。  また苦しむことになる、と。  怖い……。  面と向かって、またあの言葉を言われたら、もう、心がもたない。  震える手の振動がグラスの水面を揺らし、足は勝手に後退りしていた。 「斗楽、逃げるな」  聞きたいこと、言いたいことがたくさんありすぎて、言葉たちが喉の奥で我先に出てこようと暴れている。  詰まった声の代わりに、涙がポタポタと零れ落ちていた。 「斗楽、話を聞いてくれ……」  真っ直ぐ見つめられると、愛しい瞳に囚われた体は動けなくなった。

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