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第25話
車の中で気まずさを味わいながら、浅見の仮住まいに到着した。
部屋にいざなってくれる手は優しい。
でも、どこか遠慮がちでよそよそしいなと、斗楽は思った。
些細な違和感の意味を考える余裕もなく、リビングを横切って自然と窓辺に身を寄せた。
青とオレンジの間で煌めく星が慰めるように瞬き、少しだけ救われた気持ちになる。
ここで幸せなときを過ごしたのが夢のようだなと、自嘲めいた顔が窓に映っていた。
もう、ここへ来ることはないって思ってたのにな……。
「何か飲むか」
背中に声をかけられても斗楽は振り返ることもせず、「いえ、大丈夫です」と、ガラスに映る浅見に返事をした。
「……紅茶だけど、ここに置いとくよ。よかったら飲んで」
浅見の言葉と一緒にダージリンの香りが漂う。
逞しい腕の中が恋しいと思うのは、浅見が纏うの香りと似てたのかな。
香水の名前、聞かなくてよかった。
知ってしまえば、名前を目にするたび、香りを嗅ぐたびに浅見を思い出してしまう。
今でも、街の中で、どこかのお店で、似たような香りに振り返っていたから。
他のことを考えようとしても、強い引力で浅見の元へ心が引き戻される。
「斗楽君、こっちにおいで」
名前を呼ばれて、胸にチリリと痛みが走った。
ソファの隣に座るよう手で示されると、逆らえない体はゆっくりと浅見の横に座った。
忘れられない香りに刺激され、まだを彼を欲しがる浅ましい自分に腹が立つ。
「斗楽君、ごめん。バリから連絡できなくて不安にさせたよな」
体重を両膝に預け、前屈みになった浅見が斗楽へと視線を向けてくる。
整えていた前髪がはらりと落ち、額にかかると浅見の表情に翳を作った。
陰影が悲しげに見えて思わず手を差し伸べたくなったけれど、触れる資格が自分にはあるのかわからない。
「バリに着いて一週間くらいかな、斗楽君がメッセージをくれただろう。凄く嬉しかったのに、俺は返事をすることに躊躇ったんだ」
黙ったまま浅見の言葉を聞いていた。
ソファの背もたれにも触れず、背筋を伸ばして両手を膝に乗せた姿勢で。
力を入れておかないと、気力が保てなかった。
「返事をすぐできなかったのは、現場にある人が現れたからだった。過去に犯した俺の罪──いや、ともに罪を犯した相手だ」
結末の見えない話に、斗楽の体は自然と浅見へと向いていた。
「週刊誌、見たんだろ?」
斗楽が頷くと、浅見の視線は正面にある真っ暗なテレビ画面に向けられた。
「これから話すことは、斗楽君に軽蔑されることかもしれない。だから顔も見たくなくなったら、かまわず帰ってくれていいからな」
萎れそうな声で浅見が弱音を吐く。
これまで聞いたことのない声音に、斗楽の体が小さく震えた。
「俺がデビューして名前が売れ出したとき、スポンサー企業の会長が孫を連れてライブを観にきたんだ。それが九条文乃だった。彼女は俺のバンドのファンで、頻繁に会いに来るようになった。業界の人間なら誰もが平伏す男の孫だから、彼女が現場に訪れても文句を言う人間は誰もいなかった。そんな日が数日過ぎたころ、付き合って欲しいと彼女にせがまれたんだ」
ここまで一気に吐露した浅見が、苦悩の吐息を漏らす。
口にし難い話なのがひしひしと伝わってくる。
斗楽は桜田に聞いた話を頭に置き、浅見の声に耳を傾けた。
告げられる内容は斗楽にどんな感情を植え付けてくるのか。
それでも話を聞かなければ、これから先も心から笑えない気がする。
「俺も若かったし、バンドも売れて浮かれてたのもあったと思う。それに、スポンサーの娘と付き合って損はない。そんな打算もあって、俺は軽い気持ちで交際を始めた。けれどそれは文乃が圭佑 ──メンバーの一人と親しくなるまでだった」
「ど、どう言うことですか? だって文乃さんは──」
言いかけて口を閉ざした。
桜田の話では文乃は妹だと聞いている。
兄妹というのは桜田の勘違いなのか?
じゃあ、〝兄妹〟っていうのは噂……?
だって、彼女は浅見さんの恋人だった……。
それらのことを確かめることができず、浅見の話を黙って聞いていた。
「今思えば、最初から文乃は圭介が目当てだったのかもしれないな。二人は同い年で、いつも楽しそうに戯れあっていた」
浅見が苦笑めいた顔で遠くを見つめていた。
「文乃が会いにきてもソロで忙しかった俺は、彼女といる時間もなくなった。だから圭佑と親密になった文乃を見ても何も言えなかった。そんなとき、彼女の祖父が俺を呼び出して言ったんだ、お前たちは兄妹なんだと」
「兄妹……」
やはり桜田の言っていたことは本当だった。
しかも、二人は血の繋がった兄妹で恋人になり、妹と知らず、深い関係になったというのか。
圭佑と文乃はどうなった? 頭が雑然となって思考が追いつかない。
「俺の妹は『フミノ』っていうんだ。漢字が同じでも九条文乃は『アヤノ』だ。だから俺は最初からアヤノを妹だなんて疑いもしなかった。二人が同一人物だと九条に聞かされたとき、このことが世間にバレる前に別れろと言われた。そりゃそうだよな、こんなスキャンダル、マスコミにとっては最高のネタだ」
浅見がペットボトルを手にし、まるで焼け酒を呷るように水を飲んでいる。
粗野な仕草から浅見が突然芸能活動を休止した理由は、文乃との関係が関わっていたのかと想像できた。
「妹と知らずに深い関係になった俺は歌うことができず、理由も話さないままバンドを解散して逃げるようにアメリカへ行った。当然、仲間は怒り狂ったよ、特に圭佑がな。自分たちだけじゃなく、文乃まで捨てるのかと。俺はそんなあいつを無視し、ほとぼりが冷めたころ日本へ戻って俳優の道へと進んだ。会社からは歌えと言われたけど、罪人の俺が愛や友情を歌に込めて世間に伝えるなんてできなかった。歌も、人を好きになることも怖くてできなかった」
項垂れる浅見がテレビのモニターに映っている。
繋ぎ止めておかないと、漆黒の闇へ連れて行かれるんじゃないかと思えた。
「バリに行って撮影が始まったとき、文乃と再会した。でもそれは偶然じゃなく、俺がバリにいると知ってて彼女はやってきたんだ」
刺々しく聞こえる浅見の言葉を黙って聞いていた。次の言葉を聞くまでは。
「あいつは俺とよりを戻したいと言ってきたよ」
「えっ! で、でも浅見さんと文乃さんは──」
「……俺たちは兄妹じゃなかった。文乃は本当に九条の孫だったんだ。だから九条家に引き取られた。文乃の母親は九条家の一人娘で、親の反対を押し切って好きな男の子どもを産んだ。けど相手の男と引き離され、軟禁状態になったんだ。そんな彼女を親友だった俺の母が連れ出して、別れた相手に託したんだ」
斗楽の瞳は限界まで見開いた。
血が繋がってなかった──ということは、二人に障害はない……。
誰に咎められることもなく、今度こそ堂々と愛を囁きあえるのだ。
斗楽にとって最悪の結末だった。
寄り添う二人まで想像して、心臓が抉られそうになる。
もう話なんて聞きたくない、今すぐ逃げ出したい!
居た堪れなくなった斗楽が腰を浮かしかけると、浅見に手首を掴まれた。
まだ、ここにいろと言うように。
途中で帰っていいと言ったくせに、何て残酷な人だと、斗楽は思った。
「あいつは真実を伝えにバリにきた。信じられなかったけど、文乃の話は俺たちの過去を知る施設の人から聞いた話だった。文乃の両親が事故に遭い、死に際に俺の母へ文乃を託したんだ。母は九条家にバレないよう『フミノ』として文乃を育てた。それなのに施設にいた文乃は九条に見つかってしまったんだ。九条は娘の二の舞をさせまいと、俺と文乃を引き離す手段として兄妹だと嘘を吐いたんだ。まんまと九条の言葉を信じた俺は、禁忌を犯した罪から逃げた最低な人間なんだ」
愛した人と血の繋がりはなかった。
浅見が全てを斗楽に話したのは、今度こそ彼女と一緒に生きて行くことを伝えるためなのだ。
男同士の睦言を、忘れて欲しいということだ。
体が震えだすのを必死で耐えた。
油断すると声を張り上げて泣いてしまいそうだった。
俺は、もう必要……ない。
喉元に出しかけた声は沈黙に押し潰され、心も限界に達している。
浅見を傷つける言葉を言いそうになって、斗楽はソファから立ち上がった。それなのに、浅見が手を離してくれない。
「どこへ行く……」
「はな、してください。俺は約束したから。浅見さんに、迷惑をかけないって」
自分の心は脆くて弱い。嫉妬で醜い。
掴まれた手に縋って、泣いて、別れたくないと叫びたいほど浅ましい。
なけなしの決心が鈍らないよう、浅見の手首を振り解こうとした。けれど、それ以上の力で浅見が引き止めてくる。
「離すもんか」と、耳元で囁かれて抱き締められる。
耳朶に触れる吐息と低くて甘い声。
斗楽の全神経を蕩けさせる音源が、浅見の唇から溢れると、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出した。
「わかってますっ。お、俺、誰にも、言いませんから。い、妹じゃなかったんでしょ? 二人はまた、やり直すって。だから、俺に別れると言ったんだっ」
「別れる? 何のことだ。俺はそんなこと言った覚え──もしかして、俺がバリにいたとき、何か聞いた──いや、スマホかっ。スマホから何かメッセージを受け取ったのかっ」
浅見の胸の中で斗楽は小さく頷く。
口を開けば罵倒しか出ない気がした。
「斗楽、よく聞け。俺はバリから一度もお前に連絡をしていない。いや、それも申し訳ないけど、文乃と再会して返信することに迷っている間にスマホをなくしたんだ。きっと盗んだのは文乃だ。あいつが俺のフリをして、斗楽にメッセージを送ったんだ」
「浅見さんじゃ……ない?」
「信じてくれ。俺は連絡したくてもできなかったんだ。日本に戻ってから見つかったけど、データの復元はできなかった。だから確かめようがないけど、俺は断じて別れるなんて送ってない。信じてくれ」
「ほ、んとう……に? あのメール、浅見さん、じゃ……」
「ああ、本当だ。俺は斗楽を手離さない。初めて斗楽と会ったとき、闇しかなかった俺の心に光が差した気がしたんだ。斗楽といると腹の底から笑えて、楽しくて、生きている実感ができる。歌もそうだ。変わることに怯えていた俺の背中を斗楽が押してくれた。心を偽ったまま、上っ面だけで生きていた俺を変えてくれたのは君なんだっ。斗楽の笑顔なんだ。文乃に会って思い知らされた、彼女との間にはなかった独占欲が俺の中に生まれたのを。本気で誰かを求めることを知らなかった俺に、斗楽が、斗楽だけがずっと光を注いでくれていたんだ。俺は斗楽が必要なんだ……」
力強く抱き締めてくる浅見の体が熱い。
耳に注がれる声が切なくて愛おしい。
文乃さんは妹じゃなかった、それに、あの別れの言葉は──。全部、誤解……?
浅見さんのことを信じたい、でも、信じていいのだろうか……。
「浅見さん。俺、浅見さんを信じたい。でも……」
「俺を信じてくれ。俺だけを愛して、俺のそばにいて、俺だけに笑ってくれ」
置いてかれた子どものように、浅見が必死で縋ってくる。
「……俺も浅見さんと一緒にいたい。でも、九条さんが──」
「言い訳に聞こえるかもしれないが、文乃のことは妹としか思えない。それはあいつも同じだ。文乃が俺の前に現れたのは、俺がバンドを捨てたせいで圭佑が自分の前から去った恨みからなんだ」
浅見の言葉を理解しようとしても、文乃の気持ちが不明瞭なままでは浅見の言葉を鵜呑みにはできない。
二人に障害はないし、今の浅見はバンド時代と違ってホテル王の孫娘と釣り合う人間だ。
文乃が浅見を取り戻すために、斗楽へ嘘のメールを送ったと考えるのが普通だ。
それでも、彼女がまだ浅見さんを好きでも……俺は……渡したくない。
「……好きです、俺は浅見さんが大好きですっ」
浅見の腕の中で叫ぶと、斗楽は広い胸を抱き締めた。
両腕を背中に回し、浅見の体を抱き締める。
文乃の気持ちが浅見にあったとしても、愛しい人の言葉を信じる自分を貫きたい。
けれど、頭の隅では警笛が鳴っている。
「……斗楽」
浅見の中にすっぽり収まる体を、大きな手のひらが撫でてくれる。
斗楽は応えるようにスーツの胸に頬を擦り寄せた。
浅見の手で腰を引き寄せられると、互いの体の隙間をなくすよう密着が増す。
熱い唇が斗楽の額に落ちてくる。
涙で濡れた頬に唇で触れられると、「しょっぱいな」と、微笑んでくれた。
自然と二人の唇が重なると、優しい口づけを受け止める。
キスする度に悲しみが消えないかなと、期待する。
浅見に触れられて嬉しいのに、臆病なもう一人の自分がポツンと取り残されていた。
「今夜はこのまま俺のそばにいてくれるか?」
甘く囁かれて嫌なわけがない。それなのに不安が優っている。
斗楽は返事の代わりに浅見の背中にしがみ付いた。
浅見の首に吐息混じりの口づけを仕掛けると、煽情された浅見に体を抱えられてベッドへと運ばれる。
体が沈んだはずみで浅見の香りが濃くなる。
媚薬のように感覚が麻痺し、惚 けていると斗楽の上に浅見が跨ってきた。
ジャケットを脱ぎ捨て、シャツを荒々しく床に落とす。
そして、斗楽のシャツのボタンを丁寧に外していく。
露わになった上半身には、二つの小さな器官が浅見の手で乱されるのを待っていた。
骨ばった指でそこを触れられると、斗楽の体が弓形に反って、「ああっ」と喜悦が漏れた。
快感の芯に火種を灯され、悦楽の階段を一気に駆け上がりたい衝動に駆られる。
大きな手は丸い後頭部を捉え、互いの鼻先が触れ合うほどの距離まで近づく。
二つの唇が、互いを求め合う。
水音を部屋中に響かせて、口づけの応酬が止まらない。
何度も唇や舌を貪られ、同時に浅見の指は斗楽を攻め立てる。
気付くと二人の雄は限界まで屹立していた。
一つの体にならない二つの体はピッタリと密着し、触れ合うことで発酵するんじゃないかと思うほど素肌が熱を帯びている。
上昇した体温が嬉しくて、斗楽は自然と涙を流した。
上半身に花びらのように口づけを散りばめられ、白い肌に落花の痕が映える。
全身が性感帯になったみたいに、どこを触れられても快感の火花がチラついた。
「あ……さみさっ、好き……す、き……」
浅見しか知らない体では、彼を虜にする術がわからない。
色気のない体で施 しても、精一杯の行為はままごとのようだとからかわれるかもしれない。
それでも好きな人に喜んでもらおうと、斗楽は必死で浅見の体を欲した。
離れてしまわないように、涙交じりに縋った。
厚い胸板になん度も口づけ、舌を出せと囁かれれば差し出し、甘噛みされたり吸われたりを許した。
浅見からの全ての要求に応えようと必死だった。
「斗楽、斗楽……。俺のだ。俺のそばにいろっ」
全身を埋め尽くすように口づけを散らされると、嬌声が止まらなくなる。
快楽に抗えず腰が揺れだし、蠱惑的に男を引き寄せる娼婦のように、無意識に振る舞った。
それほど浅見と一つになりたかった。
浅見の気持ちを確かめたかった。
「俺を煽ってどうする気だ。もう、止まらないぞ……。斗楽のせいだ」
熱くて固い楔 が斗楽の後孔にあてがわれると、先走りのぬめりを使って浅見が強引に押し入ってくる。
痛みで唇を噛んでも、激しい抽挿の中で快楽を口にする浅見の声が嬉しい。
瞳からまた涙が溢れた。
肌と肌がぶつかる音が耳を犯しても、今の斗楽は羞恥よりも安心が占めていた。
浅見と再び体を重ねること。
それを何にも変え難い愛を与えてもらった。このときの斗楽は心からそう信じていた……。
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