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第26話

 誤解は解けたはずなのに、心の奥には、まだ小さな棘のような不安が刺さっていた。  浅見の前に、文乃が現れないという保証はどこにもない──。  気になって仕方がないけれど、日常は容赦なくやってくる。  仕事で気を紛らわすなんて、日下部さんが知ったら怒鳴られるかもしれないな……。  苦笑しながら、「大丈夫」と自分に暗示をかけ、アスファルトを踏み締める。  それでも、何かが起こるような予感が、胸をざわつかせた。   多忙な浅見と会えない時間は、斗楽に不安ばかり連れてくる。    珍しく残業がなかった斗楽は、いつものように駅に向かおうと歩き始めた。  槇と一緒に食事に行こうかとよぎったけれど、帰り際に朝日の鼻歌を聞いてしまったから、誘うことはやめた。  きっと、二人はデートだ。  ふと、斗楽は街路樹に目を向けた。    馬鹿だな、浅見さんが迎えに来れないの、知ってるくせに。  ──しばらく立て続けに仕事が入っていて、会えないんだ。    浅見の仮住まいで過ごした帰り、そう言っていた。    ため息をこぼしながら足を進めていると、不意に後ろから名前を呼ばれた。  聞き慣れない女の人の声だ。  振り返ると、斗楽の前には見知らぬ女性がこちらを見て、にっこり笑いかけている。  長い黒髪が風になびき、異国を想像させる香りが鼻腔をくすぐった。  黒のレース素材のワンピースが宵闇に映え、艶めいた唇が引き立つその顔を、斗楽はどこかで見たことがあるなと、首を傾げた。  取引先の担当者を思い浮かべても、これほどの美女なら記憶にある。  クライアントにしてもそうだ。  黙ったまま見つめていると、「去来川斗楽さんですよね?」と、問われた。  フルネームで呼ばれたことに驚きながらも、「はい。あの、失礼ですが──」と、聞き返した。  もし、クライアントだったらこの質問はかなり失礼にあたる。 「初めまして。私、九条文乃と言います」 「く、九条……文乃さん」  正体がわかった途端、こめかみに拳銃を突きつけられたように動けなくなった。 「その顔だと、私の存在を薫から聞いてるのね」  優しく微笑んでいた顔が一変し、射抜くように斗楽を睨みつけてくる。 「私がここにきた意味、わかりますか」  話す度に距離を詰められ、その分、斗楽は無意識に後退りしていた。  穏やかな口調なのに、彼女の目からは敵意や憎悪しか感じられない。  高圧的なオーラに気押され、何も言えないで凝視する斗楽に、文乃が白い封筒を目の前に差し出してきた。 「な、何ですか……これ」 「招待状です、私と薫の婚約披露パーティーの。薫が随分お世話になったみたいだから、そのお礼に招待させてください」 「こ、婚約って。う、嘘です。こんなの、お、俺は信じません。お、俺は浅見さんを信じてますからっ」  上擦る声だったけれど、きっぱりと言い切った。  それが(しゃく)に触ったのか、文乃が封筒を斗楽の胸に押し付けてくる。  日本だけではなく世界に名高い文乃の背景が、斗楽の心根をへし折ろうと襲いかかってくるように思えた。 「何をいうかと思えば、男のくせに恥知らずですね。子孫も残せない体のあなたに、何ができるっていうの? それに薫は私を選ぶしかないの」 「ど、どういうことですか?」 「あなたも広告会社の人間ならいずれ耳にすると思うわね。でも、先に教えてあげます。薫は私の祖父の後を継いで近い未来、私と一緒になるんです。わかりました?」  文乃の言葉が脳天を貫く。  浅見の笑顔がよぎったのに、その顔は斗楽から目を逸らすイメージに変わってしまった。 「わ、わかりません。お、俺は浅見さんを信じるだけです」  邪魔なものをなぎ払うような言葉に、斗楽が対抗する術はないのかもしれない。  それでも浅見を信じる気持ちだけが、今の斗楽にできることだった。  唯一の支えだった。 「薫は私に従うしかありません。逆らえば、彼は恩を仇で返すことになるから」 「い、言ってる意味がわかりません。それに、人の気持ちを自由にしていいはず──」 「自由にできます。薫は私に逆らえない、それを証明するための招待状です。あなたは薫のことを信じてるって言いますが、人は簡単に裏切ります。好きだと言っても都合が悪くなると離れてしまう。どれだけ愛しても、相手が去ってしまえば終わりです。その証拠に、薫も簡単に仲間と私の捨てました。今度はあなたがそれを味わう番です」  文乃の言葉は斗楽を通りすぎ、どこか別のところに向けられている気がした。  それでもピアノ線のように張った、強い声で言い切られると、浅見を信じる気持ちが揺らぎそうになる。  行き交う人は斗楽たちに気も止めず、家路へと足早に去っていく。  人波に紛れて彼女の前から消えたかったけれど、文乃の双眸がそれを許さなかった。   「ち、力で人を支配することはできません。そんな方法で手に入れても、それは本物の気持ちじゃない。きっと、二人ともが寂しくなります。人を好きになる気持ちは、自分の勝手でどうにかできるもんじゃない」  表情一つ変えない文乃が、「それで?」と、歯牙にもかけない素振りを見せる。  それでも自分を奮い立たせ、文乃の目を真っ直ぐ見据えた。 「もし、そんなことで動くような想いなら、それは……それは、俺の望んでいる愛じゃなかったと諦めます」 「では、今諦めた方が身のためです。薫も毛色が変わってるからあなたに手を出したんですよ。本当は私の元へ戻りたいはず。だって私は子どもを産める女ですから」  文乃の啖呵に言葉を失った。  彼女の言うとおり、性別だけはどうすることもできない。  いくら愛していると言っても、女性には決して敵わないことが男の斗楽を苦しめる。 「やっと私の言いたいことがわかってくれたみたいですね。では、パーティーには必ず来てください。実際に目で見れば諦めもつくはずですから」  勝者とも思える言葉を吐き捨てると、ヒールの音とともに文乃は去っていった。  美しくて気高く、たおやかな彼女の後ろ姿に魅入られ、斗楽は動けずにいた。  性別が障壁になっても、浅見から与えられた愛は本物で、心から信じて生きていこうと思っていた。  でも今、文乃の言葉を聞いて、決意が崩れそうになっている。  足元を見ると、封筒が落ちていた。  ソレを拾い上げると、震える指で中身を取り出す。  カードを開くと、百合の花の字模様の上に綴られた名前に手が震えた。 『浅見 薫・九条 文乃』の連名と、披露宴の日時が書かれてある。  九条家の一人娘で後継者……。  斗楽が逆立ちしても敵わないものが形となり、手の中に握り締められていた。

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