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第27話
テレビや週刊誌では再び、浅見と文乃の関係が再燃していた。
その原因は、斗楽の鞄の中に沈めた白い封筒だった。
九条家の孫娘が、芸能人の浅見薫と婚約する噂は、瞬く間にメディアに流された。
一週間が経っても報道の熱は冷めず、斗楽の不安は増すばかりだった。
それでも浅見を信じている。
けれど、仕事が忙しくてすれ違いばかりでは、斗楽の心は折れそうだった。
会うことができないと、気持ちが揺らぐ。
それでも幾度か交わしたメッセージに縋り、寂しさからギリギリ耐えていた。
浅見の過去を知った夜、お互いの心を確認することで絆が生まれた。
ただ、そう思っているのは自分だけなのかもしれない。
一旦、そんなことを考えてしまうと、卑屈でネガティヴだった昔の自分が顔を出す。
挙句、仕事でミスを犯した斗楽は、日下部にキツく叱責されてしまった。
いくら集中できなかったとはいえ、初歩的な失敗をして入社何年目だと情けなく思う。
自省しながら修正し終えると、いつの間にか日下部がそばにいた。
「飯でも行くか」と、唐突に誘われ、呆然としてしまった。
日下部の手には既に鞄があり、斗楽の支度を待っている。
「ほら、早くしろ。俺のお薦めのバーに連れて行ってやる。あそこのマスターが作るオムライスは絶品なんだ」
正直、食欲はあまりなかったけれど、飲みたい気分ではあった。
日下部に連れられ、たどり着いた店は、一人だと尻込みしてしまうほど落ち着いた店構え。
日下部と一緒じゃなければ、一生ドアを開けることはない大人な雰囲気だった。
いざ、店内に入ると、日下部が常連になったのが納得できてしまった。
「うまっ、何これ! 日下部さん、これ、めっちゃくちゃ美味いですっ」
鮮やかな黄色に、手作りのトマトソースを纏ったオムライスを前に、ひと口頬張った斗楽はあまりの美味しさにもんどりを打ちそうになった。
日下部を見ると、「だろ?」と、得意げな顔でオムライスを食べている。
いつもの日下部にホッとして続きを夢中で食べていると、ふと視線を感じた。
「やっと笑ったな。最近のお前はうわの空で覇気がないし、いつもの明るい笑顔も見てない。だから活を入れてやったんだ」
苦笑いする日下部を見ながら、斗楽はようやく気づいた。
あの叱責も、優しさのうちだったのだと
──だから日下部さんは、さっきわざとキツく言ったんだ。
機知に富んだ考えの日下部に関心し、同時に感謝もした。
何気なく部下を鼓舞できるから、理想の上司だと女性陣は甘いため息を溢すのだろう。
「ありがとうございます。日下部さんの飴とムチのおかげで俺、元気になりました」
横目でニッと笑顔を見せられ、「残すなよ」と、頭をくしゃくしゃっと撫でられた。
「もちろん。こんな美味しいもの残しませんよ」
美味いものを食べると元気になるっていう理論は本当だなと、改めて思った。
九条文乃と対峙してからの斗楽は、家に帰ってもろくに食事も取らず、ベッドに潜り込んで、何かに抗うように眠りにつく日々を送っていた。
絶品のオムライスは久しぶりのまともな食事だったし、食後に選んでもらったカクテルも素晴らしかった。
斗楽は三杯もおかわりをしてしまった。
日下部とのたわいもない話に、最高のカクテルは斗楽の脳を甘く酩酊させた。
そろそろお開きにするかと言われ、斗楽はすかさず、もう一杯だけ、「お願いしますっ」と粘った。
けれど、日下部は渋い顔でもうタクシーを呼んでいた。
「飲み過ぎだ、去来川。ほら、帰るぞ」
カウンターから体を引き剥がされると、送ってやるからと、酔っ払った部下に上司が優しい言葉をくれる。
「日下部さん、は、部下のことをよく見てくれてますね」と、酔った勢いで言うと、「ストーカーほどは見てないぞ」と、冗談を返してくれる。
「ほんと、楽しく、て心強くて、そんけ、してま……」
偽りのない心を伝えようとしたのに一気に酔いが回り、睡魔まで襲ってくる。
ずっと寝不足だった体にアルコールが入ったせいで、自分の力だけでは椅子から立てなくなってしまった。
「尊敬……か」と、困ったような顔の日下部が朧げに見える。
何でそんな顔をするのかなと考えたけれど、思考がまとまらない。
肩を組むように支えられ、店の外に出て待機していたタクシーに乗せられた。
ふにゃふにゃになった体と頭で、されるがままになっていると、隣に座った日下部と目が合った。
頭を引き寄せられると、自身の肩に斗楽の頭を着地させてくれる。
「寄りかかってろ。寝ててもいいぞ、着いたら起こしてやるから」
いつもと違う雰囲気を醸し出す日下部の声が気になり、上目遣いで確認すると、「何だ」と、見下ろされた。
「いえ」と、返事をして下を向いた途端、クラクラしてきた。
日下部の肩を借りて目を閉じてみたけれど、車特有の振動が体に心地いい。
ふと、浅見の車に乗ったことを思い出してしまった。
運転しながら斗楽の手を握ってくれたことに心が逸り、この上ない喜びを感じた。
今は日下部の肩から伝わる温もりが現実で、浅見と過ごしたひとときの方が夢だったのではと思わせてくる。
弱い心が支配してくると、涙が頬を伝って落ちた。
日下部が斗楽の方に向きを変え、自身の手を差し出してくる。
その仕草の意味がわからないまま視線を手の甲へ向けると、数滴の雫が付着していた。
「あ、俺。すいません。す、すぐ拭きます──」
「去来川、全部話せ。何かあったのかは丸わかりだ。話してスッキリすることもある、俺でよければ聞くから言ってみろ」
いつもの安心できる顔が側にある。
甘えてもいいのだろうかと、斗楽は逡巡した。
仕事とは全く関係ない、プライベートの、しかも恋人の話だ。
それも普通の恋愛ではない。
打ち明けるには浅見薫や、九条文乃の名前を出すことになる。
そこに自分が絡んでいると言っても、冗談や勘違いしてるんじゃないかと思われかねない。
斗楽は左右に引き結んでいた唇を、ゆっくり緩めた。
日下部が斗楽の方へ向きを変えたから、話を聞く体制を取ってくれたのがわかった。
僅かな動作だったけれど、安定剤のように心に染み込んでくる。
「あの……日下部さん、信じてもらえないかもしれませんけど、俺が、付き合ってる、その、相手って言うのは、浅見薫……さんなんです」
言い終えて日下部を見上げると、瞠目している上司がそこにいた。
「あ、浅見薫って、あの、あの浅見か? しかも、男──」
「俺、ゲイなんです」
一瞬、日下部の表情が固まった気がした。
斗楽は目を逸らし、ポツリと続けた。
「すいません……言うつもりじゃなかったんですけど」
カミングアウトした手前、気安く触れてはいけないと思い、日下部から離れようとした。
けれど、再び頭を抱えられ、「まだ、寄りかかっておけ」と、上司が言う。
「……謝ることじゃないだろ。ゲイとか関係ない。で、付き合ったきっかけは雪村酒造の仕事でか」
「いえ、あ、でもそうなのかな。すいません、話せば長くなるかも……」
「構わない。話してみろ。ちゃんと聞いててやるから」
肩越しに感じる日下部の優しさにまた泣きそうになった。
俯いてごまかそうとしたら、スマホを落とした日のことがよみがえった。
耐えられず、嗚咽が出そうになる。
記憶から消えることのない浅見との出会いを、斗楽は涙声でポツポツと紡いでいった。
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