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第28話
斗楽のアパートに到着するころにはすべてを話し終え、日下部は終始、黙って聞いてくれていた。
「すいません、ここで一人降りますから」と告げ、日下部が先に外へと出た。
あとから斗楽も降りようと地面に足をつけたが、アルコールのせいで力が入らず、足がもつれてしまう。
よろめく体を日下部が支えてくれた。
おぼつかない斗楽を心配し、タクシーを待たせて日下部が三階まで付き添ってくれる。
部屋の前に到着して礼を言おうとしたとき、鞄から着信音が聞こえてきた。
画面を確認すると登録されていない番号だ。
躊躇ったけど、何となくでてしまった。
「も、もしもし?」
『去来川さん? 私、九条文乃です。こんばんは』
「く、九条さん! ど、どうして!」
横で聞いていた日下部と目が合う。
『突然ごめんなさい。桜田さんに番号を聞きました。私たちの招待状を薫の会社にも届けたときに、あなたの名刺を見せてもらいましたので』
事務所に招待状……。
仕事の関係者まで招待することが、斗楽に現実を植え付けてくる。
「あ、あの、要件は……」
文乃の口調が怖くてスマホを持つ手が震える。
歯の根が合わなくて上手く話せないでいると、日下部がそっと肩を抱いてくれた。
『去来川さん、必ず出席してくださいね。日曜ならお仕事もお休みでしょ? お電話したのはあなたが欠席しそうだったからです。それに、その日は婚約だけではなく、新会社の社長就任のお披露目もあるので』
「社長就任って。もしかして──」
『あら、察しがいいんですね。さすが広告マン』
皮肉のような声がスマホ越しに聞こえてくる。
今すぐ通話を切りたい衝動に駆られた。
「で、でも、浅見さんはこれからも歌やお芝居を続け──」
『あなたに言われなくてもわかってます。新会社の社長は薫。彼は〝使える〟から、メディアにもしっかり出てもらいます』
「あ、浅見さんを宣伝にって、浅見さんのこれまでを何だと思っているんですか!」
バンド活動から実力を認められ、そこから必死で努力した人を、しかも婚約者なのに宣伝の道具にするなんて。
文乃の言い草に怒りが湧き、斗楽はスーツの生地を握り締めて訴えた。
『利用できるものは利用しないと。私のいる世界は、あなたがいるぬるい場所ではありません。反論があるならどうぞ、おっしゃって』
反論……。
何も……言えない、言えなかった。
言いたくても、もうその材料がない。
全てが文乃に敵わない。
容姿も、境遇も、性別……も。
浅見を思う気持ちだけは負けないと奮い立たせても、それは砂の城のように崩れそうになっている。
『では、お待ちしてますので』
一方的な会話で電話が切れると、斗楽はスマホを鞄へと沈めた。
もう、着信音を聞くことさえも怖い。
「大丈夫か、去来川。もしかして相手は九条か」
日下部が顔を覗き込んでくる。肩に置かれた手に力がこもったのがわかった。
「……はい。披露宴にちゃんと来るようにと」
「わざわざ念を押しの電話をしてきたのか」
「俺が出席しないと思ったんでしょうね」
悔し涙がこぼれそうになる。
ただ、好きなだけなのに。
ただ、それだけのことなのに。
どうしてここまで、辛い思いをしなければならないのだろう。
「泣きたいときは泣いた方がいい。俺が……いる」
同情の言葉でも、上司の優しさでも、今の斗楽には嬉しかった。
「ありがとうございます、日下部さん……」
日下部を見上げると、視線の先にはいつもの優しい上司ではなく、色香を纏った男が斗楽を見下ろしている。
熱を孕んだ視線を注がれると、なぜか心拍数が不規則なリズムを刻みだした。
日下部が不意に手を伸ばし、斗楽の頬に触れながら顔を近づけてきた。
これまで意識したことのない感触と至近距離に動揺し、日下部を直視できなくなる。
視線を右往左往させていると、酔いはさっきより冷めているはずなのに、全身が熱くなってきた。
「……そんな顔するな。このまま連れて帰りたくなる」
囁くような言葉と一緒に、斗楽の体は日下部に包まれていた。
初めて知る日下部の力強さに驚いていると、一層、日下部の腕に力が増してくる。
「あ、あの。日下部さん、もしかして酔ってますか」
いつもと違う日下部から離れようとしてみたが、それは簡単に阻まれた。
再び距離を縮められ、日下部の胸に閉じ込められる。
「日下部さ──」
名前を呼ぼうと見上げた斗楽の唇は、日下部の唇で閉じ込められてしまった。
ウィスキーがほんのり香る吐息と、優しく纏う柔らかい閉塞感。
数秒の口づけでも息が詰まりそうになり、斗楽は力を入れることができない。
日下部の胸を叩き、逃れようとしても拘束は緩まらない。
抱き竦められている現状に戸惑いながら、日下部の体をようやく突き飛ばした。
すぐに部屋に入ろうとしたけれど、手首を掴まれ、背中から抱き締められてしまう。
「去来川、お前が好きだ……」
耳元で囁かれた声は、静かに鼓膜の奥に届く。
体を動かすことができずにいると、耳朶にそっとキスをされた。
そのまま柔肌に滴るような刺激を使って、斗楽の中に何かを刻んでこようとする。
「くさかべ……さん」
困惑していると、日下部の腕が斗楽の胸の前でしっかり交差してしまった。
まるで逃さないといわんばかりに。
「ずっと前から好きだった。でも男同士だから……諦めた。でも、同じだって知ってしまったら、黙っていられなかったんだ」
日下部の胸の中で聞いた告白が、ノクターンのように聴こえる。
触れる手も、言葉も、思いも全てに優しさが加味されていた。
「去来川を混乱させているのは百も承知だ。でももう我慢はしない。お前が俺と同じだってわかったんだ、弱っているお前に漬け込むからな」
日下部が腕の拘束をほどいてくれると、正面に向きを変えられた。
子どもに言い聞かせるように頭を撫でられ、髪に口づけをくれる。
「悪かったな、急に。さあ、もう部屋へ入れ」
背中をそっと押されると、日下部はそのままタクシーが待つ方へ行ってしまった。
階段を降りる足音を聞きながら、じわじわと込み上がってくる日下部の優しさを感じていた。
胸が切なく疼き、居ても立ってもいられなくなった斗楽は、踵を返して階段を一気に駆け降りた。
タクシーに乗った日下部に追いつくと、驚いた顔が後部座席の窓を下げてくれる。
「日下部さん。あの、謝らないでください。それと、ありがとう……ございます」
今の斗楽が言える言葉を、感謝を込めて伝えた。
「……お前な、追いかけてくるって……。ほんと、去来川のそんなところが好きなんだよな」
優しく微笑む日下部に、「俺、ちゃんと考えますから……」と告げた。
でもその先は、この場では言えない。
「……ああ。じゃ、また会社でな。おやすみ」
「おやすみ……なさい」
タクシーを見送りながら、自分なんかに微笑んでくれる日下部の想いを想像した。
そして、心の底から反省した。
これまでどんな気持ちで、彼は自分を見ていてくれたのか。
浅見のことで落ち込んでいたとき、日下部はどんな思いで接してくれていたのか……。
日下部の笑顔や励ましてくれた言葉、優しい手に感謝してもしきれない。
「……日下部さん。すいません。俺……」
口にした言葉が、責めるように斗楽の心に響く。
溢れてくる涙で頬が濡れて、そこを夜風が冷やしていく。
滲む瞳でテールランプを見つめながら、斗楽は唇にそっと触れてみる。
優しく触れただけの口づけだったのに、思い出すのは浅見の熱くて激しい唇だった。
「浅見さん……」
名前を呟いたことが呼び水となり、墨を落としたような空の下で浅見を想った。
浅見の笑顔、声、触れてくれる手の温もり。全部を想って斗楽は静かに涙を溢した。
大好きな憧れの人に会えた衝撃や、交わした言葉。
初めて名前を呼んでくれたこと。
甘い口づけや、重ねた体の熱さが次々と胸を締め付けてくる。
浅見にとって特別な存在になれた自分を愛しく思え、でもそれが奇跡としか思えず、何度も自分なんかでいいのかと自問自答した。
日下部からの告白で、それら全てが色濃く斗楽の心に染み込んでくる。
もう充分なのかもしれない……。
大好きな人と、わずかな間でも一緒に過ごせたのだから。
「一生分の幸せをもらったようなもの……か」
口に出してしまうと、涙腺が壊れたように雫が止まらない。
浅見の声が無性に聞きたい。
顔を見たい。
抱き締めて、口づけをして欲しい。
苦しみくらいじゃ揺るがない気持ちだと、自分に言い聞かせていた。
それなのに、信じていると言いながらも、文乃の言葉に惑わされている心は弱い。
弱すぎた……。
招待状の連名が、瞼の裏に焼きついて離れない。
パーティーなんて行きたくない。
でも、行かなければ。
自分の目で確かめなければ、前に進むことができない。
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