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第31話

「うーん、めちゃいい天気! よかったね、斗楽」 「ほんと、空気が美味しい」    見渡す限りの田園風景。  遠くに見える、青々とした木々に覆われた山。  景色もさることながら、空気が最高にうまいっ。  朝早く家を出て到着したここは、農家を営む青森県の朝日の実家だ。  朝日の発案で、槇と三人でお邪魔している。  青空の下、遮断するビルもない美しい風景に斗楽は何度も深呼吸した。  自分の中にある〝負の感情〟を吐き出すように。  飛行機で四時間ちょっとの小旅行の始まりは、最高の天気と清々しい空気に迎えられた。  少しでも心が晴れればと──。  きっと、そんなことを考えて槇は誘ってくれたと思う。  実家へ行く前にレンタカーを借りて三人で、岩木山までドライブした。  帰り道では朝日が教えてくれた、環境省が選定する、名水百選に選ばれている湧水も飲み、斗楽だけではなく、槇も朝日も一緒に心から癒しを満喫できた。    身も心もきれいになるって、こういうことを言うのかな……。  車から降りた斗楽は初めて見る、日本の良き風景に見惚れてしまったのだ。  生まれも育ちも神奈川の街人間は、田舎暮らしが憧れでもある。 「俺、親んとこ行ってくるわ。この時間は畑にいるからさ」  自宅の駐車場に車を止めた朝日そう言って、庭の向こう側にある広大な畑へと向かって走って行く。 「ごめんね、斗楽」  唐突に槇が沈んだ声を発した。 「え? 何が……」 「だって、朝日の実家に行こうだなんて急に誘ったりしたからさ……」  まつ毛を伏せる槇の顔を斗楽は覗き込む。  彼女に気を使わせているのが、痛いほど伝わってくる。だから敢えて、明るく言ってみた。  浅見のライブを初めて観たときに決意した、自分の指針を思い出して。 「珍しくしおらしいな、槇ちゃん」  茶化すように言うと、案の定、槇が猫のような目を釣り上げて「な、なに言ってんのよ」と、怒って言う。  けれど、それが本気で言っているわけではないことは十分伝わっていた。 「ごめん、ごめん。誘ってくれて嬉しいよ。でも、いきなり二人が家にきて、週末は青森行くぞって言ったときはびっくりしたな。朝日なんて凄い形相で、『農業体験しますから』なんて言うから、俺、迫力負けして思わず頷いちゃったし」 「あー、やっぱいきなりだったもんね。……なんかね、二人でご飯食べてたら急に盛り上がっちゃって。季節もいいし、暑くなる前に行っとくかーって、ね」  これも二人の優しい嘘だ。  世間やマスコミが浅見と文乃の結婚報道で溢れていたせいで、斗楽の精神は崩壊寸前だった。  元気のない俺を心配して……。  優しいな、二人とも。  感傷に浸っていても、日常はやってくる。  何とか平静を装い、いつものように朝を迎えて仕事をして夜になる。  眠れなくて、ただ目を閉じていただけを繰り返していたからか、体調は最悪だった。  心配して玲央が家にきたとき、斗楽が何も言ってないのに、『二度と浅見薫には会うな』と固く約束をさせられた。  きっと、テレビか何かの報道で全てを把握しての叱責だったと思う。  槇ちゃんと朝日は、俺が浅見さんと付き合ってたのを知らない。  ただ、いつもと違う俺を励まそうとしてくれている……。 「誘ってくれて嬉しかったよ。新鮮な空気の中にいるとモヤモヤが消えそうだ」    ごめんな、槇ちゃん。本当のこと、言えなくて……。  相手が相手なだけに迂闊に話せない。  本当は浅見に了承をもらって、堂々と、そして槇と朝日に負けないくらい、幸せな気持ちで報告したかった。  でも、それももう、叶わない……。 「あ、斗楽。朝日が手を振ってるよ、あっちに行こうか」   槇に言われて、さっき朝日が走って行った方向を見ると、両親らしい人が見えた。  斗楽と槇は、長靴をボコボコさせながら、不慣れな土の上を歩いて行く。  ようやく朝日の顔がはっきり見えるところまでくると、「こっちこっち」と、朝日の横で両親も手を振ってくれていた。 「亜果里(あかり)さん、斗楽先輩っ。紹介しますね、これ、親父と母さん。で、こっちは会社の先輩の槇亜果里さんと去来川斗楽先輩」  朝日の紹介で斗楽達が両親と挨拶を交わしていると、朝日の視線が家の方に向き、「あ、兄きだ」と、声を弾ませている。 「よぉ、朝日。おかえり、元気だったか」  朝日よりひとまわりほど年上だと聞いていたその男性は、日に焼けて頼もしい印象を受ける出で立ちだった。  顔は朝日とあまり似ていない、男気溢れる農業男子に見えた。 「元気、元気。兄貴は——と、聞かなくてもわかるか」 「何だよ、久しぶりに会ってその口の聞き方は。しかもべっぴんさんとイケメンも連れて帰ってきて。えっと、お二人さん、初めまして。この愚弟の兄の陽太(ようた)です。いつも弟がお世話になってます」  日に焼けた肌に白い歯を見せて笑う陽太が、「で、どっちが嫁なんだ?」とひやかしてくる。  斗楽はこっそり槇の顔を横目で見た。  顔が真っ赤だ。可愛いな、槇ちゃんは。    きっと、朝日は自分の彼女も紹介したかったんだ。  そんな大切な場面に自分も呼んでもらえることに、斗楽は二人に心から感謝をしていた。   「ば、ばか違うよ。それに、斗楽先輩に失礼だろっ! 今日は、き、気晴らしに来たんだからっ」  もうその言い方は槇が彼女で、嫁候補ですと言っているようなもんだ。  朝日と槇の嬉しい未来が想像できる。  心が弾んで、斗楽は久しぶりに心から笑うことができた。  一緒になって朝日のファミリーも笑っていると、豪快な笑顔の陽太の後ろから爽やかに微笑む男性が近付いてきた。 「あれ、兄貴。こっち向かってるのって、もしかして圭ちゃん?」  朝日の言葉で振り返った陽太が、やって来た男性に、「よお」と、手をあげている。 「朝日、久しぶりだな。俺のことちゃんと覚えてるか? 乙馬(おつま)家のこの次男坊、圭介を」 「覚えてるよ。当たり前だろ。高校以来かな? 久しぶりだなぁ」  「でかくなったな、朝日。すっかり都会っ子だな」  朝日たちが和気あいあいしているのを見ていると、「ね、斗楽。田舎男子って何でこんなにかっこいいんだろね」と、槇が耳打ちしてきた。 「確かに」と、斗楽も感嘆を漏らす。  朝日の兄、陽太は弟に負けじと、明るく気さくで太陽のような印象だった。  圭介にしても、陽太よりは線は細いが、程よい筋肉が肌を覆い、茶色に染めた長めの髪を後で一まとめにしている。  よく見ると、耳朶にはいくつ着けてたんだというほど、ピアスの穴が連なっていた。 「で、朝日。こっちのべっぴんさんと可愛子ちゃんは誰?」  圭介が観察するように、斗楽と槇に目を向けてくる。 「もうその話はまた今度、ゆっくりとな。斗楽先輩、亜果里さん、この人は幼馴染で、兄貴の同級生なんだ。それより圭ちゃんは、いつこっちに帰ってきたんだよ。ずっと東京に住んでるって思ってた」 「うーん、七年くらい前かな。……東京は俺にはやっぱり合ってなかった……かな」  陽太と違って東京暮らしを経験しているせいか、作業服を着ていても圭介はどこかあか抜けている。ピアスの後も納得できた。 「イケメンですね、乙馬さんって」 「お、都会のお嬢さんにイケメン認定もらったな。さすが、元バンドマン」  陽太が強引に圭介の肩を組むと、圭介が鬱陶しそうに陽太を遠ざけようとしている。  背の高い男二人が暴れるのを両親が呆れ、「ごゆっくり」と言い残して隣の畑へと行ってしまった。 「へー、バンドやってたんですか。どうりでカッコいいはずです」  槇が感心していると、圭介が、「リタイヤ組だけどね」と、苦笑を見せてきた。  そう言った表情がどこか曇って見えたのは、気にしすぎだろうか。  斗楽はふと、浅見が教えてくれた、食えなかったバンド時代の話を思い出した。  名前が売れるのには、相当な苦労があるんだ。  そのことを教えてくれた人は、もう、斗楽のそばにはいないけれど……。 「こいつってさ、バンドが突然解散したから、農家継ぐって戻ってきたんだよ。まぁ、おっちゃんたちは喜んでたけどな。長男が農協で働きながらの兼業農家やってっから、ゆくゆくは兄弟二人で家を継いでくれるって」 「俺はあくまで兄貴の補佐だよ、農家歴なんて兄貴や陽太に比べれば浅いしさ」  伏せ目がちで言う圭介のポケットからスマホの呼び出し音が聞こえた。 「悪い」と言って、電話に出ながら圭介がその場を離れる。 「あ、俺、先にトイレに行っとこうかな。朝日、家に戻ってもいいか?」 「はい。玄関開いてるんで、入って使ってください。あ、道わかります? 家は圭介の向かった方ですから」  そう言って、朝日が電話をしながら歩く圭介を指差す。 「ありがと、覚えてるから大丈夫だよ」  斗楽は長靴をがっぽがっぽと音を立てながら、圭介を追いかけるように朝日の自宅へと向かった。  畑と庭を通り過ぎ、母屋へ入ろうとした斗楽は、荒げた圭介の声に足が止まった。  喧嘩腰にも思える声音が気になり、庭の端にある納屋へと近付いく。  納屋の陰から覗くと、後ろ姿の圭介が怒りを表すよう、そばに生えていた草を蹴っては踏みにじってを繰り返している。  あんな怒って、圭介さんどうしたんだろ……。  見守るように圭介を見ていると── 「だからもうかけて来ないでくださいって言ったじゃないですか薫さん!」   荒々しく怒鳴る圭介が口にした名前に、心臓が止まりそうになった。  ——今、今カオルって言わなかった……。 「今更あんたが何を言っても、どうしようもないんだ。それに俺はもう、あいつのことは忘れたんです。だからはほっといて下さ——えっ、今日? こっちにっ」  突き放したような口調の会話が、後半トーンダウンする。  圭介が動揺しているのが、斗楽の位置からでもわかった。  押し問答のように、同じような言葉を繰り返していた会話が終わると、圭介が舌打ちしている。 「なんだって言うんだよ、今さら……」   日に焼けて茶色くなった髪をくしゃりとかき混ぜ、圭介が頭抱えてその場に蹲っている。 「今さら、『あやの』のことなんて……。こっちは必死で忘れようとしているのに」  圭介の呟いた名前を聞いた瞬間、斗楽は、以前、浅見の口から語られた人物の名前を思い出した。  まさか……『カオル』って浅見さん? あ、あのとき、浅見さんが言っていた『ケイスケ』って、圭介……さんのこと……?  浅見の口から『ケイスケ』という名前が出た夜を思い出した──  あのとき、確か「メンバーの一人」と浅見は言っていた……。  斗楽の頭の中に、浅見が切々と語っていた、過去の話を呼び起こす。  圭介を見ると、蹲ったまま身動きしていない。  斗楽は圭介の様子を見ながら、あり得ない偶然をよぎらせてしまい、それを払拭しようとかぶりを振った。    蹲った体勢のまま、圭介はスマホをじっと見つめている。  指先は何度も右へ左へと画面をスクロールし、ときおり止めては、何かを確かめるように食い入るように見つめていた。  不意に圭介がスマホを額に押し付けたまま、肩を振るわせている……ように見えた。  数秒、そうしていたかと思うと、スマホをポケットにしまいながら、母屋の方へと行ってしまった。  一瞬よぎった人物の名前。それをなぜ、圭介が口にしていたのか。  聞いてしまった内容は分からなくても、会話に出てきた名前は同姓同名の、見知らぬ人たちの話なんかじゃないことは嫌でもわかってしまう。    圭介さんは東京でバンドしてた……。それに、さっきの電話の相手はきっと……。  言いようのない不安が胸に広がる。  抜けるような青空の下、斗楽は胸元を掴んだまま、その場でじっと佇んでいた。

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