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第30話

 これまで人を信じることに、疑問を持ったことなどなかった。  それが今は、どうやって信じればいいのかわからない。  相手の言葉を、どう飲み込んでいたのか──何も思い出せない。  足が鉛のように重く感じ、どこをどう歩いたのか記憶もなく斗楽はアパートに帰って来た。  いつも軽快に上っていた階段も、今日は時間をかけてゆっくりと上った。  ようやく三階の廊下に足をかけたところで、部屋の前にいる人影に気付く。  正体がわかった瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。 「おかえり、去来川」  普段着のラフな姿で、日下部が手を振っている。 「日下部さん……」  名前を呟いた途端、必死で耐えていた涙腺が崩壊した。 「……そろそろ帰ると踏んでたんだ。中華街で美味い餃子買ってきたから一緒に食わないか。ビールも買ってあるぞ」  いつもと変わらない笑顔で、日下部が笑ってくれる。 「待っててくれたん……ですか」  いつ帰るかもわからないのに、待っていてくれた。  手土産も、斗楽を励ます理由だとわかってしまう。  優しい微笑みで迎えられると、差し出されたその腕に縋ってしまいそうになる。  そんな愚かな行為は卑怯だと、声が聞こえる。それなのに、膝の力が抜けて泣き崩れてしまった。  苦しい。苦しくて、苦しくてもう耐えられない。なのに、まだ心が浅見を求めている。  今、目の前にいるのが日下部ではなく、浅見ならどんなに嬉しかったか。  日下部の気持ちを知りながら、酷いことを考えてしまう自分が許せない。  優しい人に申し訳なくて、涙が溢れた……。 「去来川。部屋に入ろう、少し休め」  弱った斗楽の耳に届いた声は、あまりにも優し過ぎて胸が締め付けられる声音だった。  覚束ない体を日下部が部屋に運んでくれる間も、浅見の温もりを探している自分は、本当に最低な人間だ。 「珈琲でも淹れようか。いや、去来川は腹が減っているはずだ。さっき蚊の鳴くような声だったもんな。餃子買ってきて正解だったな。ほら、先に着替えてこい、用意しとくから」  クローゼットまで背中を押されると、日下部がキッチンへと行ってしまった。  ノロノロと着替えて戻ると、テーブルに用意された餃子やビールが滲んで見える。  自分勝手な人間なのに、優しくしてもらう資格なんてない、愚かな人間なのに、日下部の行為に甘えそうになる。 「よし、じゃあ食おう──って言っても、餃子とビールだけだけどな。でもここのは美味いんだぞ、ニンニク抜きだから翌日が仕事でもガンガン食えるからお勧めだ」  いつも以上に明るく振る舞う日下部が、グラスにビールを注いでくれる。  空きっ腹じゃ悪酔いすると言って、先に餃子を食えと皿に取り分けてもくれた。 「……明日は仕事だから、ニンニク、気にしないで食えますね」 「そうか、去来川は明日出勤するんだな。祝日なのに偉いなぁ」  意地悪っぽく言う日下部の言葉でカレンダーに目を向けると、「あっ」と叫んだ。  いつものように戯おどけて見せようとしたのに、上手く笑えず顔がひきつってしまう。 「曜日の感覚が狂ってました……。でも、仕事をしている方がいいかもしれません」 「それを言うか、去来川。ダメだろ、辛いからって仕事を逃げ道にしようとするな。そんなのはお前らしくない」  仕事で叱責されたときと同じ、凛とした声に咎められ、本当ですねと、反省した。  ほんと、ダメダメな人間だ。  これじゃ、優しい上司にも呆れられてしまう。  箸を握り締めたまま俯いていると、日下部がスッと立って隣に移動してきた。  頭を抱え込むよう引き寄せられると、そのまま日下部の肩に乗っかる。 「あの……日下部さ──」 「卑怯だよな、俺は。……こんなときに、何を考えてるんだろうなって思ってる。けど、去来川を慰めたいし、甘やかしたいし、触れたいんだ、俺は」  日下部がぼそりと呟く。  頭の位置を変えて日下部を見上げる形になると、見つめてくる瞳と目が合う。  この手に甘えたら、楽になれる。  わかっているのに、日下部の手を取れない。  いつまでも日下部に甘えていてはだめだ。  浅見に恋してしまったときに、わかっていた。  誰も、彼の代わりになんてなれない。 「日下部……さん。おれ……」  言いかけた言葉は、日下部に抱き締められたことで喉の奥に取り残されてしまう。 「くさかべ……さ──」 「いさ──斗楽……。俺にしろ、俺を選べ。俺ならお前をそんな顔にしない。それに俺の方がずっとお前を見てきたんだ」 「……おれ、おれは……」  抱き竦められた体は、そっとカーペットの上に寝かされた。  慈しむような視線で見下ろされながら、優しい手つきで前髪をかき分けられる。  露わになった額に日下部の唇が落とされると、鼻先、頬、そして唇へと順に熱を分け与えられていく。  何も考えられず無抵抗のままでいると、日下部の唇が激しさを増し、閉じていた唇をこじ開けられて熱い舌が差し込まれた。  シャツをたくし上げられた瞬間、斗楽は我に帰って腕を思いっきり突っぱねた。 「去来川……」  優しい眼差しで見下ろされても、その手を、唇を受け入れることはできない。  触れられることで、愛しい人の全てに紐付けされてしまうから。  追いつけない思いが涙となって、ぽろぽろとカーペットに吸い込まれている。  声を殺して泣いていると、日下部がそっと体から離れる。 「すまない……」と呟き、斗楽の服を直して涙を指先で拭ってくれた。 「……すいませ、日下部さん、お、俺……」 「お前は悪くない。俺が……」  言葉を飲み込む日下部が、体を起こしてくれた。  どうかしてたなと、髪を撫でて微笑んでくれるのに、体に蔓延る悲しみや寂しさは、浅見以外の優しい手では取り除くことが出来なかった。

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