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第33話

 母屋を抜け、庭を通り抜けたところで斗楽は立ち止まった。  門を一歩、外に踏み出せば街灯も少なく仄暗い景色。  その中を、三日月が精一杯の光を放って黒い車を照らしていた。  けれど、車は一台だけではない。  もう一台、赤い車が横に止まっていた。  何で二台……。  ふと、圭介の車かと思ったけれど、『わ』ナンバーでレンタカーだ。  それに圭介はビールを飲んでいたから運転するわけがない。  では、もう一台には誰が乗っている?  ──今から十分前、斗楽のスマホが鳴った。  相手は浅見から。  朝日の実家の前にいるから、外まで出てきて欲しい。そう言って電話は切れた。  外に出るまで時間がかかったのは、浅見と会うことを逡巡していたからだ。  けれど、槇に背中を押されたことを思い出し、斗楽は握りこぶしを作って今、ここにいる。    ゆっくり車に近づくと、先にドアが開いたのは黒い車だった。  運転席から降りてきたのは浅見だった。   「斗楽……ごめん、待たせた」  静寂な闇の中、浅見の声が優しく空中に溶けていく。  たった一言が、まだこんなにも嬉しいなんて。  でも、大好きなこの声を聞けるのも今日で最後になると思う。  ちゃんと覚えておこう。  浅見さんとの思い出を、悲しいものにしないために。    斗楽が決意をよぎらせたとき、赤い車のドアが開いた。  出てきた人物を見て、斗楽は打ちのめされた。  何で、文乃さんがここに……。  二人揃って青森まできた理由を、斗楽は二つ考えた。  一つはバンドに戻って欲しいと、圭介に話すこと。  そして、もう一つは── 「お久しぶりですね、去来川さん。こんな場所でお会いするとは……すごい偶然」 「こ……んばんは」  社交辞令の挨拶をした。  これ以上は、話すことは無理だ。  文乃の放った言葉に、好意的なものはない。 だから、今さら期待もしない。  斗楽の心はズタズタで、これ以上の悲しみを今から聞くことになる。  浅見の口から、決定打を……。 「で、薫。こんなとこまで私を呼びつけて何の用? それに、去来川さんにいてもらう理由はあるの? この人、私たちとは無関係でしょ」  それはこっちのセリフだ。  そう言いたかったけれど、斗楽にその気力はもはやない。   「斗楽にはここにいてもらう。いや、いて欲しい。まさか、青森(ここ)に……圭介のすぐそばに斗楽がいるなんて思わなかった。本当に、タイミングがいい」  浅見の言葉の意味がわからない。  バンドや文乃との話に、自分は関係ないのに……。 「話ってなに? 東京でだと話せないのなら、その理由も合わせて知りたいわ」  呆れたような顔で、文乃が大きく肩でため息をつく。  砂利で汚れたパンプスのつま先を払いながら。 「それはお前が一番、よく知っているんじゃないのか」  浅見の言葉に、文乃の体がピクッと反応する。  「な、何なの? 用がないなら帰るわ。私は忙しいんだから。婚約発表の準備だってある──」 「出てこいよ、圭介」  浅見の声で後部座席のドアが開き、圭介が黒い車から降りてきた。 「圭介……」   圭介の登場に、文乃が明らかに動揺を見せている。 「文乃、お前、まだ圭介が好きなんだろ」  浅見の言葉に文乃が瞳を見開く。そばで聞いていた斗楽も、一驚して浅見の方を見ていた。 「な、なにを言って──」 「久しぶりだな、文乃」  圭介がゆっくりと歩いて、文乃の前までくると、その足を止めた。  反対に、文乃の足は少しずつ後ろへと下がっている。 「……今さら、私の顔を見ても不愉快なだけでしょ」  文乃が突き放したように言った。  その顔、声は悲しみを押し殺しているように見える。 「会いたかったんだ、文乃に」  予想しなかった圭介のセリフに、後退りする足が止まる。 「……やめて」  「文乃、俺は──」 「やめて聞きたくない!」  両耳を塞いでその場に蹲った姿は、斗楽を威圧的に見ていた人と別人のように、か弱く見えた。    圭介がゆっくりと文乃に近づくと、膝を折って文乃と同じ視線になった。 「好きだよ、文乃。君が薫さんと一緒にいることで、幸せならそれでいいって思ってた。でもやっぱり、俺の気持ちは消せなかった。ごまかして生きるのが嫌になって、こうしてここに来たんだよ」 「嘘よ……。薫に頼まれたんでしょう? 昔から薫のことを尊敬してたあなただもの。頼まれたら断れな──」 「違う!」  圭介が声を荒げ、文乃の言葉を全身で否定した。 「な、なにが違うの! だったらなぜ薫と別れたあと、私の前から姿を消したの。私の気持ちを知っているくせに、私に指一本触れず、あなたはどこかへ行ってしまった。男はみんな勝手だわ、フラッとどこかへ逃げればいいんですもの。残った私は女で、養子だってばかにされながら、九条の家で必死で戦っていた。だから薫は一生、私のそばで私のために生きればいい。それに圭介だって、私が実の兄と寝たのが汚いって、そう思ったから消えた──」 「それは違う!」  圭介の声が静寂な闇に響く。   「それは……違う。絶対に……」  絞り出すような圭介の声を聞いていて、斗楽も苦しくなった。 「……違うって、なにが? 私のこと好きだと言ってくれても、私に一切触れなかった。……やっぱり、あのことが引っかかってたんでしょう?  兄妹でそんなことしてた女なんて、気持ち悪いって思ったんでしょう? そんな女をまだ好きだなんて……信じられると思う?」  今まで見せたことのない悲しげな表情の文乃が、瞬きもせず圭介をみつめている。 「そんなことは一度もかんがえたことないっ! 信じてくれ」  圭介が叫んだと同時に、文乃を力強く抱き寄せた。  文乃が腕の中でもがいても、圭介は離そうとしない。 「何が……勘違いなの? 私は薫だけじゃなく圭介にも捨てられたの……に」  圭介の腕を振り払った文乃が、今までのうっぷんを晴らすかのように、必死に自分の気持ちを訴えている。   「文乃……、圭介がお前を捨てるわけない。圭介は──」 「薫さん、もういいですよ。俺に勇気がなかっただけですから。もっと自分に自信があったら、強引に文乃を連れ出してた」  涙を流す文乃に圭介が、頬を伝う雫を掬っていた。  文乃に触れる圭介は、彼女を慈しむように見つめながら、「ごめんな」と呟いている。  斗楽が二人を食い入るように見ていると、浅見が文乃のそばに歩いていく。  その姿に、斗楽の胸はズキっと痛くなった。 「俺がアメリカに行ってから、圭介から連絡あったんだ、実家に帰って稼業継ぐって。親父さんが怪我してしまったからってな……。農家の仕事を手伝うことになった圭介は、文乃に全てを捨てて自分に付いて来いとは言えなかったんだよ」  浅見の言葉を聞いて、文乃の視線が圭介へと向く。  潤んだ瞳が、本当なのかと、圭介に問いかけているように斗楽の目には映った。  立っていられなくなったのか、文乃の体がフラッと倒れそうになる。  文乃さん、危なっ──  急にしゃがんだ文乃を心配し、斗楽が手を貸そうと足を踏み出そうとしたとき、浅見と目が合った。  左右に首を振って、斗楽の動きを止めようとしている。  浅見の視線を追いかけると、もう、文乃の体は圭介が抱き止めていた。  優しく微笑む圭介が、文乃の髪をそっと撫でていた。 「薫さんと話して気付いたんだ。自信なかった俺が悪いんだって。君に薫さんと比べられてるんじゃないかって、ずっと思ってたんだ。意気地がなくて、手を繋ぐことすらできなかった。でも、君が俺との写真を今でも大切に持ってると聞いて、俺は……文乃の顔を見ることができた」 「写真……」  信じられないものを見るように、文乃が浅見の方に顔を向けた。 「薫……知って──」 「知ってたよ、お前が大事そうに圭介の写真を手帳に挟んでるのを。バリで会ったとき、文乃の手にはいつも手帳があった。仕事で持っているのあったんだろうけど、そうじゃないってわかったとき、俺は何としてでも圭介と話をしようって思ったんだ」  赤い車の中にその手帳は置いてあるのか、浅見の言葉で、文乃の視線が車に向いた。   「バリで手帳を地面に落としたとき、文乃は丁寧に手帳を拭いて、そのあと……お前は胸に抱きしめていた。まるで、圭介に落としてごめん、と謝っているみたいに」  浅見の言葉で、文乃が圭介の視線から逃げるよう、目を伏せている。車のライトが彼女の赤くなった顔を照らしていた。  九条家の後取り。  女性の細い肩にそんな重圧を乗せて、必死で生きてきたのかもしれない。  男の人に負けないよう、養子だとバカにされないように。  本当は、れっきとした九条家の後取りなのに。  事実を早く公表していれば、文乃はもっと身軽に、普通の女性として楽しく生きてこれたのでは──  そんなことを考えたけれど、かぶりを振ることで斗楽は思考を消した。  住む世界が違う斗楽に、文乃の気持ちはわからない。  重圧に耐えられなくて、浅見を必要だと思ってしまう気持ち以外は。 「しゃ、写真くらい……持っててもおかしくないでしょ。そ、それに栞、そうよ栞の代わりにしてたの。だから圭介のことを思ってたわけじゃ……ないわ」  きっと彼女自身、言っていて矛盾していると感じている。そんな声音と表情をしていた。 「だけど文乃、俺はずっと変わらず君が好きだよ。このまま実家に帰っても、きっと君を好きなままだ」  圭介の声もうわずり、目も潤んでいる。 「私は……圭介の優しさが好きだった。九条の娘としてじゃなく、普通の女として扱ってくれた。いつも私を笑わせてくれて、圭介といると、気負わずに自然な自分になれた。でも、私の方こそ、圭介に相応しくない。そばにいる資格がないって……思っていた」  止めどなく漏れる嗚咽が、文乃の切実さを伝えてくる。  聞いている方も胸を締め付けられる、そんな告白だった。  文乃の表情が、張りつめていた体が、僅かにほどけてきた。  圭介が文乃の手をとり、立ち上がらせる。  宝物を扱うように、そっと抱き締めている。 「やっと文乃に触れることができた。好きだよ、文乃。君だけしか見えない」 「いいの……? 私で。だって私……」 「いいんだ。こうやって俺のそばにいてくれれば……」  深い夜の中、文乃と圭介の周りにヘッドライトが優しい光を放って二人を包んでいる。  長い間すれ違っていた二人の気持ちが重なった瞬間を目にし、心の底から嬉しいと思った。  そっと、浅見を盗み見ると、大切な妹を見るような柔らかな視線を二人に向けている。  見つめすぎて、浅見に気付かれる。  目が合った。  熱い視線を送っていたことがバレた恥ずかしさで、斗楽は目を逸らした。  今度はきっと自分の番だ。  ……こんなふうに、わかりあえる人と出会えるって、どんなに幸せなんだろう。  圭介さんと文乃さんが、ちゃんと繋がれたように、自分にもそんな未来が来るだろうか。   浅見になにを言われるのか。  期待してもいいのだろうかと、斗楽の中で小さな希望の灯りが灯っていた。

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