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第34話

 助手席に座ると、浅見が静かにアクセルを踏んだ。  ほの暗い闇を数分進むと、バスの回転場所を見つけて浅見がそこで車を停める。  囁くような音楽が車内に流れていたけれど、浅見の手がそれを切った。  田畑や山に囲まれた静かな場所。  真っ黒な闇が車に覆いかぶさり、景色も斗楽の心も飲み込もうとしているように感じる。  唾を飲み込む音さえ、浅見に聞かれそうだ。  緊張で耐えきれず、斗楽はずっと下を向いてズボンのシワだけを見ている。  言葉を待っていると、運転席の浅見が体の向きを変える気配がした。 「……元気だったか」  労うような声だった。  いつもの甘くて濃厚な声ではなく、まるで先輩が後輩を、先生が生徒を心配するような音に聞こえた。 「はい……」  何とか返事をしたけれど、それ以上の言葉が浮かばず、また唇を左右に引き結ぶ。    さっきの、文乃と圭介の二人が浮かぶ。  文乃の涙が、斗楽の心にじわりと広がっていた。  背筋を伸ばし、冷ややかに睨んできた彼女が、さっきはただの一人の女として抱きしめられていた。  ドレス姿よりも、ずっと、ずっと人間らしく、美しかった。   下を向いたままで、そんなことを考えていたら、浅見の手が頭に触れてこようした。  斗楽はそれを払い除けてしまった。 「あ……すいません」  自分でもなぜそんなことをしたのか。  無意識な自分の行動を、自分でも不思議に思う。 「いや……いいんだ。それよりこれからする話を聞いて、斗楽がどうしたいか教えて欲しい」  払いのけられた手の着地場所に迷っているのか、浅見の手が空中で置き去りになっている。その手は、迷った挙句、浅見自身の膝の上におさまった。 「……文乃と婚約発表したホテルに、斗楽も来てただろ。あんな姿、見せたくなかった……」  苦しそうに浅見が言う。  それでも、それ以上に、自分は苦しくて辛かった。  惨めで、情けなくて、あの場に居続けることができなかった。  なにも言わず、斗楽が黙っていると、浅見が話を続けた。 「結婚しなければ、俺の会社を買収するって文乃が言ってきたんだ。だから、守るために仕方なく──」 「ば、買収! 本当ですか! 桜田さんたちも知って──」 「いや、知らないし、言ってない。俺はそれを阻止しようと思って、圭介のところに行ったんだ。九条の重圧や、俺だけ逃げたことを責めるための結婚をしてほしくなかった。文乃には、本当に好きな人と一緒になって欲しいって思ったからね」 「そ……うだったんですね。会社を奪われるから──」 「文乃がまだ圭介を思っていたことは、写真を見てわかっていたから。あとは圭介の気持ちだけだった。あいつを探して文乃への気持ちを確かめる。それが出来るまで、俺は斗楽に連絡すらできなかった。俺が斗楽を諦めたと思わせるためにね」  だから、電話もメッセージも浅見さんからなかったんだ……。  浅見が黙っていたのは、全部理由があった。  でも──もし、教えてくれてたら、俺はどうしただろう。  会いに行ってたかもしれない。連絡してたかもしれない。  そのせいで、文乃さんがすべてを壊していたら……。   ……考えたくもない。  会社を守るため……。  浅見のが言った、この言葉が重い。  斗楽は浅見がデビューできた経緯を思い出した。  会社の社長に声をかけられた、浅見はそう言っていた。  施設で育っていた浅見の才能を見抜いて、居場所を作ってくれた人たちに恩を感じている。  浅見の口から聞かなくても、斗楽にはそう思えた。 「……そうだったんですか。文乃さん、会社を買収するまで考えてたなんて……」 「文乃はずっと圭介を忘れていないし、あいつの代わりなら俺じゃなくても、誰でもよかったんだ。俺を選んだのは、あいつを無視して俺だけが自由だったことに腹を立てていたからだ」 「腹を立てて……」  ポツリ呟くと、斗楽はこぶしの中で爪を食い込ませた。   我慢していた感情が、音もなくあふれ出す。  胸が締めつけられて、目の奥が熱い。  こんなに苦しくて、それでも手放したくない恋を、斗楽は知らない。 「ごめん、斗楽。俺がお前にしたこと、謝ったところでなかったことになんてならない。でも、それをわかってて俺は斗楽を望んでいる。斗楽を離したくないんだ」  大きな手が再び差し出された。  今度は触れてこない。  真っ直ぐ差し出された手は、斗楽自らが触れてくるのを待っているように思える。  浅見の温もりに包まれたい。  逞しい腕の中で鼓動を聞き、口づけをして欲しい。  愛されることが怖いなんて、どうしてだろう。  ずっと欲しかったはずなのに。信じたいのに、怖い……。  そう思うと、浅見の手を取ることができない。胸が張り裂けそうなほどに苦しい……。  もう一度、彼を信じることができるのだろうか。  信じてもまた、浅見が離れてしまえば、今度こそ耐えられない……。 「俺は斗楽のスマホを拾った日から気持ちは変わらない。今まで辛い思いばかりさせたけど、これだけは信じて欲しい」  変わらない優しい眼差し。  斗楽はその腕に飛び込もうかと、浅見に触れようと手を動かした。  でも、怖い……。  有名人の浅見は、やっぱり別の世界の住人で、自分など吹けば飛ぶちっぽけな存在だ。  裏切られても文句は言わないし、言えない……。 「……怖いんです。一緒にいても、また浅見さんがどこかへ行ってしまうんじゃないかって……そんな考えを持ったまま、平常心であなたといられない」   肩を震わせながら、燻っていた思いを告げた。  浅見と一緒にいることを望む自分が確かにいるのに、心が怖がっている。 「すまない……。もう絶対に斗楽を一人にはしない。ずっとそばにいる、俺を信じてくれ」   心細気な肩に大きな手がそっと触れる。  暖かさが擦れられた肩を使って、斗楽の全身を温めてくれる。  信じたいのに、心が拒否する。もうあんな思いはしたくな── 「愛してる、斗楽」    耳を疑う言葉が聞こえた。    今、浅見さんは、何て……。 「好きだ、斗楽。お前だけしかいらない。斗楽と出会っていなかったら、俺はずっと闇に囚われたままだった。斗楽の純粋で、きれいな心が生み出す光が俺には必要なんだ」  ずっと欲しかった、二文字。  それが今、浅見の口から紡がれた。  好きの二文字を、どれだけ欲しかったか……。   「浅見……さん、俺のこと……スキ……?」  浅見を信じたくて、一緒に未来を見たくて、口にした。 「……好きだよ、斗楽。俺は何度でも言える。心の限りを尽くして言うよ。愛してる……。斗楽、お前しかいらない」  奇跡のような、運命のような出会いをした。  一生、会えるなんて思えない人と、恋をした。  世界中の誰より、一番近くにいることを許される存在になれた。  ただ、手を握っていれば安心できる。  ありふれた日々に舞い落ちた、最高の恋。    斗楽は自分の肩に置かれた大きな手に触れた。  その手を両手で包むと、誓いのようにそっとそこに口づける。 「浅見さん……好きです。俺も……愛してます。あなたのそばにずっと、いたい」  言いながら、斗楽の声は涙で埋もれてしまった。  それでも愛しい人に伝わったと思う。  ずっと欲しかった腕に、斗楽の体は包まれていたから。

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