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新たなる幻惑
まだ夜が明けきらぬ中、イリアは王の間でそっと目を覚ました。
前回は明け方に姿を消していたラザールだったが、政 で疲れているのか、それとも昨夜の「悪戯」がよほど楽しかったのか、今は、無邪気に寝息を立てながら、寝台に身を横たえている。こんこんと眠るその表情は、王として島を支配している際の威厳に満ちた面差しとは全く異なる、まるで少年のようなものだった。
そっと、その肉体に触れてみる。華奢なイリアとは比べ物にならないほど、分厚い上半身、まるで太もものように逞しい腕。石造りの彫刻のようなその胸に身を寄せると、心臓が確かに、とく、とく、と脈打っているのが分かった。
ーーもしも、今ここで、俺がこの男を殺めたらどうなるのだろう?
ふと、そんな危険な考えが脳裏をかすめる。
そうしたら、俺は間違いなくこの島を出られる。ただし、生きた状態ではないだろうが。
イリアは、自分の愚かさを自ら罰するように首を横に振り、床に落ちていた衣装を手早く身につけると、足音を立てないように王の間を後にした。
「花」として力を得るまでは、自分の意志を持つことなど許されない。今、イリアに必要なのはこの島で「重要な存在」であると認められるよう、王族たちの寵愛を受ける奴隷として成長することだった。決して本意ではないが、それだけが、自らを救う唯一の方法だ。
「お勤め、ご苦労様です」
黒子のように扉の外で控えた侍従が、相変わらず無表情な顔つきでイリアに向かって頭を下げる。イリアは、黙って頷くと、素直に侍従へ従い、自分の部屋へと向かった。暁の静けさに満ちた廊下に、足音が響く。夜明け前の、この静寂だけが、イリアの胸を故郷の砂漠へと誘い、癒してくれる。
しかし…
ーーそんな切ない感慨に浸っていると、イリアと従者たちのものに混じって、別の足音が背後から聞こえてきた。
「ずいぶん早いお目覚めだな、リュサの花よ」
表情のない淡々とした声に振り向くと、そこには、長い外套に細い体を包んだ少年のような男が立っていた。――宮廷魔術師ミフリ。島についた当日、香かぐわの間で、イリアに催淫の香術をかけた男。あどけない顔とはやや不釣りあいな銀色の髪が、夜明け前の薄暗がりの中で、まるで発光しているかのように見える。
イリアの傍らを守るようにして歩いていた従者たちが、一斉に頭を下げるところを見ると、彼もまた、この島でなにがしかの「力」を持っているに違いない。
もちろん、ラザールやエリオスとは比べ物にならないほどのものだろうが、イリアやジュナン、カイやシスといった他の「花」たちとは異なる類の存在であることは確かだ。
ーー自分も、努力すれば彼のような「力」を手に入れることができるのだろうか…?
「何か…御用でしょうか?」
イリアは、自分と同じくらいの年齢に見えるその魔術師に向かって尋ねた。
「用がなければ『花』に声など掛けない」
冷たいその口調に、一瞬だけイリアの腹の中で何かが蠢く。
「失礼しました…」
「詫びなくても良い、リュサの花よ。私が見たいのはお前の誠意だけだ」
「誠意…?」
「そうだ、ラザール様とエリオス様より、お前を特別なプログラムに案内しろという用命を受けている」
「二人から、同時に…?」
「もちろんこれは異例のことだが、お前にとって悪い話ではあるまい。『花』としての価値を、それだけ認められているということだからな」
イリアは、その言葉に自分の身体が確かに反応するのを感じた。ラザールのものになるのか、エリオスのものになるのか、今はまだ選ぶべき時ではないが、二人が自分に関心を寄せてくれているのは確かだ。
それに、特別なプログラムというからには、恐らくあの、エリオスの『庭』で受けたような、蕾を咲かせるためのものだろう。すでに昨夜の遊戯で、イリアの蕾は一段階上のレベルに達したはずだが、それを断る理由などない。
ーーそれに…俺は…
情けないことに、イリアは、いや、イリアの身体は、新たな快楽を求めて甘く疼き始めていた。昨夜の辱めの痕がまだ生々しく肉体に刻み込まれているというのに…恥辱に頬を赤く染めながら、イリアはあどけない顔をした魔術師に視線をやった。
「それは、どのようなプログラムなのでしょうか?」
ミフリは、そんなイリアの困惑を見透かしたように皮肉な笑みを口元に浮かべると、小さく首を傾げて言った。
「やはりお前も『花』だな。新たな愛技を覚えたくて仕方ないと見える」
「俺はそんな…」
ミフリは、そこで一気に距離を詰めると、イリアの耳元に顔を寄せて言った。
「大丈夫、分かっているさ。頭と身体は別物だ。一度味わってしまった快楽の記憶は、決してその肉体からは取り除けない」
白檀 のような、甘い香り。イノセントな顔とは裏腹な、艶を帯びた不思議な声に、幻惑されるのを感じる。島に咲いた花のような赤い唇が、頬に触れそうなほど近くにぴったりと寄せられる。
「少し身体を休めた方が良いだろう。夜伽は疲れるものだ。そうだな、日がちょうど島の真上に昇る頃、地下室に来るが良い」
「地下室…?」
ミフリは、顔を寄せたまま、決して笑わない瞳でイリアを貫きながら頷いた。
「そう、そこでお前の新たな才覚が覚醒するだろう」
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