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終焉の入江

 洞窟のようになった入江の船着場には、すでに一隻の小舟が浮かんでいた。その周囲にいた数人の侍従たちが、イリアとエリオスの到着を待ち構えていたようにわっと声を上げ、こちらへ向かってくる。エリオスは、彼ら一人ひとりに礼を言った後、真剣な眼差しでイリアを見つめた。 「さあ、早く。時間をかければかけるほど、作戦が失敗する確率が高くなる。舟に乗りなさい」 「分かりました」  潮風が、まるであらゆる束縛から解放されようとしているイリアを祝福するかのように、海の向こうから吹いてくる。あの先に、自分の生まれた地ーーリュサの氏族たちの大地が確かにあるのだ。イリアは、布の隙間からのぞく前髪をなびかせながら、一瞬だけ目を閉じて息を深く吸うと、入江に浮かんだ小舟へ近づいて行った。  しかし、その瞬間ーー 「どこへ行くのだエリオス?」  背後から聞こえてきた深く太い声に、イリアの体がびくりと反応する。それは、この島で幾度も耳にした声ーー冷たくて、優しくて、唯一無二の響きを持つ声。王ラザールのものだった。恐る恐る振り返ると、そこには、十数人の護衛たちを引き連れた、「彼」の姿があった。  ーー何故、ラザールがここに?  ーー作戦がバレて?…俺たちは失敗したのか? 「兄上ーー」  エリオスも、驚いた表情を浮かべ、自らの兄を見つめている。恐らく彼も、この展開は予想していなかったに違いない。全てが、上手くいくはずだったのに。そんなエリオスの心の声が、イリアの胸にまで伝わってくるかのようだ。イリアは、舟に乗ろうとした状態のまま、自分の体が硬直しているのを感じていた。 「俺はーー隣国へ所用がありまして。ちょうど『花』を一人追放するということでしたので、共に参ろうと」 「そうか?おかしいな。私はそんな話は聞いていないが」 「…それは妙ですね。しかしもう舟を出さないと、約束に間に合いませんので」  エリオスは、何とか落ち着きを取り戻したのか、はっきりとした口調でそう言うと、固まってしまったイリアの背を押し、自らも舟へ乗り込もうとした。しかし、冷酷にも、その背中に向けてラザールは追い打ちをかけた。 「して、その『花』とやらは何という名だ?最後にその顔を拝んでみたいのだが」  ーーまずい。  ーーここで布を取れと言われたら…  エリオスは、その瞬間、石像のように固まると、イリアに目を向けた。その眼差しには、何かを決意した者特有の輝きがあった。イリアは、まだこの島へ来る前、その目を何度も見たことがあった。これは、獣の目だ。天敵に襲われ、深手を負い、自らの死を悟った獣の目。 「イリア」  エリオスは硬直したイリアの耳元でそう囁いた。 「お前だけでも、舟に乗れ。俺はここに残る」  侍従たちが、まるで弟王を守護するかのように円陣を組む。しかし、向こうには剣を手にした護衛が十数人控えている。太刀打ちできるわけもない。 「できません、俺だけでこの島を出るだなんて…!」 「お前ならできる。」  エリオスは笑った。 「待っていろ。すぐに俺も追いついてみせる」  その言葉が真実でないことを、イリアは確かに知っていた。しかし、どうすることもできない。ここで自分が彼のためにできることは、何一つない。すでに『花』を勝手に追放しようとしたことで、彼は疑惑をかけられているのだ。だからといって、このまま彼一人を置いて自分だけ自由の身になることなど、イリアにはできないーー  数秒間、緊迫した空気の中、沈黙が流れる。  イリアは、再び目を閉じて、潮の匂いを嗅いだ。そして、その向こうにあるはずの、自らが生まれた大地の匂いを嗅いだ。それから、足をかけようとしていた舟から降り、エリオスの横に並ぶと、全身を覆った茶色い襤褸布を剥ぎ取り、その顔をーーラザールへ向けた。 「イリア!!」  エリオスが叫ぶ。まるで、それが引き金になったかのように、ラザールが護衛たちに向けて言った。 「討ち取れ!」  剣を手にした十数人の男たちが、声を上げながらこちらへ向かってくる。エリオスの侍従たちも応戦しようと前に出るが、彼らは武器を持っていない。あっという間に、一人倒れ、二人倒れ、やがてイリアとエリオスは、護衛たちに囲まれていた。さっきまで潮風が吹いていた入江が、血の匂いで満たされていく。 「エリオス、これはどういうことだ」  護衛たちの背後から、彼らを左右にかき分けてラザールが歩み寄ってくる。その目には強い怒りと失望、そして執念が、燃える炎のように宿っていた。日中の冷たい表情でも、夜に見せる甘やかな顔でもない、まるで修羅のようなその瞳に、イリアは体の震えを抑えきれなかった。 「兄上、俺はーー」 「どういうことだと聞いている。簡潔に答えろ」 「…イリアは、何も悪くありません。これは全て、俺が一人でやったこと。彼はこの島を出たくないと言ったけれど、俺が無理やりーー」 「エリオス様…!」  ラザールは、静かに頷き、自らの腰に差した剣を抜くと、エリオスの喉元に当てた。 「その言葉に嘘はないと誓えるか」  エリオスは、はっきりと正面を見たまま、首を縦に振った。 「はい、誓えます」  その時ちょうど海鳥たちが一斉に羽ばたき、入江に響いた残酷な音をかき消したーー

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