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第8話④

 トントンと、扉をたたく小さな音でふっと意識が上昇した。  目を開けると部屋の中はすでに暗く、窓の外も夜中のように静まり返っていた。  あれから何時間経ったのかわからないが、いつのまにか気絶するように眠ってしまったらしい。全身が気怠いが抑制剤が効いているようで、発情の熱はほとんど引いていた。  もう一度扉をたたく音とともに、小さな声が聞こえた。 「リオン、リオン、大丈夫かい?」  (オースティンの声だ……)  リオンは廊下へと続く扉へとぼんやり目を向けた。あの扉の向こうにオースティンがいる。おそらく護衛の兵たちも。そして今さらながらに気が付いた。 (鍵、かけてない……)  部屋の扉には小さな閂が付いていたはずだ。今まで掛けたことはなかったけど、今だけは誰にも部屋の中に入って欲しくない。 (閉めなくちゃ……)  リオンは重い身体を起こして寝台を下りた。よろめきながらも部屋の扉の前まで歩く。備え付けられた閂を下すとカタンと小さな音がして、扉の向こうでオースティンが「リオン!?」と声を上げた。 「そこにいるの、リオン?」 「……はい」  あまりに必死な呼びかけだったものだから、リオンは仕方なく返事をした。 「ああ、よかった……。いくら呼び掛けても返事がないから、中で倒れてたらどうしようと思っていたところだよ。ドニから、この国の抑制剤を飲んだと聞いたけど、具合はどうだい?」 「だいじょうぶ、です……」  リオンが出せたのはか細い声だったが、オースティンには聞き取れたようだ。 「そうか、良かった。ここに食事があるんだけど、少しだけでも食べれるときに食べてね。水だけはきちんと飲んで。テーブルの上にあるから」 「……はい」  話が途切れ、一瞬の沈黙が落ちる。 「――ねえリオン、少しだけ話を聞いてもらってもいいかな?」  ふと声を低めてオースティンが言った。 「僕の二人の兄上たちがブルーメだったというのは知っている?」  その話ならついさっき、侍医のドニから聞いたところだった。はい、と頷く。 「そう。僕は昔から兄上たちのことを見ていたから、ブルーメの発情期というのが、どれほどに過酷で容赦なく残酷でそして辛いものか、よくわかっているつもりだ。きっと君もそう感じているだろう。だけどブルーメにとって、発情期は何よりも大切なものなんだよ」 「……え……?」  思わず声が出た。意味が分からなかった。  『過酷で残酷』だと言いながら、オースティンは同時に『何よりも大切なものだ』と言う。先ほどの侍医は『おめでとうございます』とも言った。 (……大切なもの? これが? 祝うべきもの?)  泣きながら自分の身体を自分で慰めて、そばにいる人を誰彼構わず性行為に誘ってしまうこの発情期が?  そんなふうに言えるのは、当事者じゃないからだ。自分がオメガではないから言えるのだ。 「そんなわけ……ない……」 「え、なんだって?」   よく聞き取れなかったのか、オースティンが聞き返す。今度こそリオンは顔を上げ、扉の向こうにいるオースティンに向かって叩きつけるように叫んだ。 「何がおめでとうだ! 何よりも大切なものだ! こんなの……こんなの! ただの淫売と同じじゃないか!」 「リオン……? 違うんだ、僕が言いたかったのは――」  扉の向こうでオースティンが何かを必死に言っている。リオン首を振ってオースティンの言葉を遮った。 「もう行って……! 僕に構わないで……!」  リオンは床にうずくまりながら、両手で両耳を覆った。  何も聞きたくなくなかった。  消えてしまいたい。  出来ることなら暗闇に溶けるようにして、自分という存在がなくなってしまえばいいのに。   リオンはつい数時間前まで、『今までとは違う自分になれた』と思っていた。自分には出来ることがあるかもしれないと、人並みの人間になれるかもしれないと小さな希望を持っていた。きっと変われると信じ始めていた。 (――だけどそんなの無理だ)  変われない。 自分はこのオメガという肉体を持つ限りは変わることはできない。  いくら変わりたいと願っても、結局は肉体に引き摺られ、心も理性も何もなくなる。  自分はずっとこうして生きるしかないのか。  疎ましく重い肉体を引き摺って生きていかなくてはならないのか――。      がたん、と窓の方から音がしたのはそのときだった。  リオンははっと身体を強張らせ、テラスへと続く大きな窓に目を向けた。  カーテンを開け放たれたままの窓からは、薄い月の光が差し込んでいた。  ふっとそこに影がよぎった。大きな影だ。 (何か……いる……?)   リオンは息を呑み、じっと窓越しの影に目を凝らした。 「え……?」  目を疑った。  青く冴え冴えと光る月の光を背後にして、闇の中に一匹の獣が佇んでいた。  灰色の毛は月の光に照らされ銀色にぼんやりと浮かび上がり、灰色の瞳だけが距離感を失ったように鮮やかに光っている。  あの美しい狼は……。 「クレイド……?」

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