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第8話⑤

 灰色の狼姿のクレイドは、器用に窓を開けて室内にするりと入ってくる。リオンは驚きのあまり身動きが出来なかった。 「こ……ここ、三階、なのに」 「二階のテラスから上がってきました」 「嘘でしょ?」  信じられなかった。いくら獣化した狼の姿だからと言っても、落ちたら死んでしまうかもしれないのに。  リオンはこちらに近づいてくるクレイドをただ茫然と見つめていたが、はっと我に返った。 (この格好……)  見下した自分の身体。上はシャツを着ているが、下半身には何も身に着けておらず、太ももには乾いた精液がこびりついている。  リオンは床の上に縮こまり、慌てて両手で自分の身体を掻き抱いた。 「見ないで……見ないで、お願い……」  ゆっくりとクレイドが近づいてくる気配がする。こんなにみっともない姿を見られてしまうと思うと、恐怖に近い羞恥が湧き上がってくる。 「お願い……今僕は汚れてるから……。こっちに来ないで……っ!」  叫んでもクレイドは歩みを止めてくれない。俯く視界の端にクレイドの前足のつま先が見えた。  どうしようもなく身を固くしていると、クレイドはリオンのすぐ前でぺたんと身を伏せた。 「あ……っ」  次の瞬間、リオンはその温かく柔らかな毛並みの中に包まれていた。背中側に回った二本の前足が、リオンを優しく引き寄せ抱擁する。   穏やかな体温にほっとするような匂い。  冷えて強張っていた心がじんわりと温められていく。限界まで張り詰めていたものが途端に溢れそうになって、慌ててそれをぐっと堰き止めた。 (――駄目だ。クレイドが汚れてしまう)  リオンはクレイドとの間に腕を入れ、身体を押し返した。 「リオン様――」 「どうして、来たの?」  突き放すつもりで口を開いたのに、実際にリオンの口から出た言葉は、自分でもわかるくらいにか細く震えていた。まるで迷子になって途方にくれた子どもみたいな声だった。 「あなたが心配だったからに決まってるでしょう」 「し、心配だなんて、してもらえるような人間じゃないよ、僕は」 「どうしてそんなふうに思うのですか?」  クレイドが小首を傾げるようにしてリオンの顔を覗き込んでくる。人間の姿のときとは違う、丸くつるんとした瞳が瞬きもせずにじっとこちらを見つめてくる。   「汚い……」 「え?」 「僕は汚いから」  クレイドが一瞬黙り、それから少し怒ったような声を出した。 「汚い? あなたが? 何を言っているのです?」 「クレイドこそ何言ってるの……? この姿を見てよ。それにさっきクレイドに最低なことをしたの、覚えてないの? クレイドは心配して優しくしてくれたのに、僕はみっともなく欲情して……っ」  クレイドに突き放された時に感じた胸の痛みと悲しみ、居たたまれなさが蘇ってきて、リオンは俯いた。 「僕は……発情すると見境がなくなる、いやらしくて最低なオメガなんだよ。クレイドだってさっき思ったでしょ? 気持ちが悪いって――」 「そんなことない!」  ほとんど叫ぶような勢いでクレイドが言った。ぐっと抱きしめる力も強まり、引き寄せられる。 「なぜそんなことを思うんです? あなたは汚くもみっともなくない! そんなわけないでしょう! こんなに綺麗なのに……」 「えっ?」  突然クレイドの口から飛び出した『綺麗』という言葉に、リオンは驚いて声を上げた。 (綺麗……? クレイドって今、綺麗って言った?)  訳がわからずに混乱していると、クレイドは低い声で唸るように言った。 「……あなたを……初めて見たときから思っていましたよ。なんて綺麗な人なのだろうと」   『綺麗な人』などと言われて、リオンは自分でも驚くほどに動揺した。 「あ、う、嘘だ。そんなデタラメなこと言っても僕は騙されないよ」 「嘘じゃない」  クレイドはいら立ったように言うと、急にぐっとこちらに体重をかけてきた。驚いてる間にもリオンは後ろ向きに倒され、気が付くと大きな狼姿のクレイドが身体の上に伸しかかっていた。 「え……クレイド……?」  戸惑い狼狽えるリオンを、上に跨ったクレイドはじっと見下してくる。その突き刺さるような強い視線に、リオンは思わずごくりと唾をのみ込んだ。  クレイドの視線が頬を滑り、首筋を辿り、くしゃくしゃになったシャツのずっと下、太もものあたりに向けられる。  リオンははっとして、シャツの裾を引っ張った。情けなさに涙が出そうだった。  見ないでと言っているのに、こんなふうに虐めるみたいにじろじろと見なくてもいいじゃないか――。  顔を背けて目をぎゅっと閉じたそのとき。 「……っ!?」  突然左の頬に濡れた感触が走った。  驚いて目を見開く。すぐ鼻先にはクレイドの狼の顔があった。 (何、今の……?)  疑問と口に出す暇もなく、おもむろに顔を近づけてきた狼が、リオンの左の頬をべろりと舐め上げる。予想もしなかった行動にリオンはひっと悲鳴をあげた。 「え……な、何……? な、な、舐めた?」 「はい、舐めました」 「なんで……?」 「あなたは汚くない。だから舐めました」 「えっ?」  慌て狼狽えるリオンとは反対に、クレイドの声は落ち着き払っていた。だけど目だけがぎらぎらと光っている。まるでそれが獲物を押さえつけた肉食動物みたいで、リオンは磔にされたように身動きできなかった。  心臓がせわしない鼓動を始め、動揺と羞恥でかあっと身体が熱くなってくる。  クレイドがまた鼻先を近づけてきた。  固まって動けないリオンの頬を、もう一度クレイドがべろりと舐める。左頬、右頬、顎、そして首筋。  シャツから出る鎖骨までもを容赦なく大きな舌で舐め上げてくる。 「あっ……んっ……やっ、……っ、やめて……っ」  エスカレートしていくクレイドから逃れたくて身を捩ろうとしたが、自分よりも二回り以上の大きな身体に伸しかかられては動けない。 「――降参しますか?」 「……っ、こ、うさん? ……ぁっ」  クレイドのざらざらとした獣の舌で舐められると、むずがゆくて仕方ない。しまいには下半身が反応しそうになって、リオンは慌ててストップを掛けた。 「降参、するっ……するから……! 舐め、ないで……!」  息も絶え絶えに言うと、ようやくクレイドは身体を離した。ふう、ふう、と必死に苦しい息を落ち着けようとしているリオンを、ただじっと上から見つめてくる。そして深く長いため息をついた。酷く疲れたようなため息だった。 「ご自分が汚くないと、ようやくご理解していただきましたか?」  「…………」 (なんかこの言葉、前も言われたような……)   思い出した。この国に来る途中で賊に襲われたときのことだ。  あのときはリオンが『自分は疫病神だ』と言ったらクレイドが『違う』と言い出して……。記憶を辿っているうちに身体から力が抜けた。  真面目なのにときどき無茶苦茶な理屈になるクレイドに、心の底から呆れてため息がでそうだ。  何をやっているのだろう。本当に意味が分からない。 「……ずるいよ。やり方が卑怯だ」 「そんなことはありません。わかっていただけるように行動で示しただけです」 「何それ……」  ふっと笑いが自分の口から漏れ出て、いつのまにか強張っていた心が緩んでいたことに気が付いた。なんだか頭の中に掛かっていた黒い|靄《もや》が晴れたような気分だ。  リオンは笑いたいような泣きたいような気持ちでクレイドの顔を見あげた。 「――ねえ、クレイド」 「はい、なんでしょう」 「僕は……汚くないの?」  リオンはじっとクレイドの灰色の瞳を覗き込みながら聞いた。つるんとした丸い眦には泣きそうな自分の顔が映っている。クレイドは頷いた。 「ええ、もちろんです」 「本当に……?」 「あなたは綺麗ですよ」  クレイドの言葉を聞いた瞬間、心に重くのしかかっていたものがふっと消えた気がした。  自分は汚い|存在《オメガ》だと、リオンはずっと思っていた。だけど本当は違うと思いたかった。  ――ずっと、誰かに「そうじゃない」と否定して欲しかった。  クレイドの声が穏やかに続ける。 「あなたは汚くなんてない。みっともなくないし穢れてもいない。だってこんなにも綺麗なのだから」  リオンは詰めていた息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。  身体の奥底で凍り付いていたものが、じわじわと温められ溶けていく。そしてそこから出てきたのは小さな小さな芽だった。温かな光の中でするすると伸びた双葉の先でつぼみが生まれ、小さな花がぱらりと開く。  そんなものが見えた気がした。 「ありがとう、クレイド」  目を開けると、穏やかにクレイドは微笑んでいた。狼の姿でもなぜかそれがはっきりとわかる。  リオンはクレイドの顔に向かって両手を伸ばした。ふわふわとした毛並みをなでると、クレイドは目を細める。 (ああ、僕はクレイドのことが――)  言葉にならない思いが込み上げてきたとき、急にクレイドがぐらりと身体を揺らした。 「あっ、……えっ?」  ふっと短く息を吐いたクレイドが、そのままリオンの身体の上に伸し掛かってくる。まともに体重をかけられ、ぐえっと変な声が出た。  重い。重すぎる。リオンは慌ててクレイドの身体を叩いた。 「クレイドっ、クレイド、重いよ」 「……すみません。力が入らない……」 「えっ」    このまま押しつぶされてしまうと一瞬怖くなったが、クレイドが最後の力を振り絞るように体を起こし、リオンはその隙にクレイドの下から這い出した。  はあと安堵の息をつき、力なく横たわるクレイドの顔を覗きこむ。 「大丈夫?」 「……ええ。獣化した影響でしょう。いつものことですので」  クレイドはそう言って薄く笑ったが、呼吸が苦しそうだ。身体も熱くなってきている。熱が出ているのだろうか。 「クレイド……」  苦しそうな姿に罪悪感が込み上げてきた。  クレイドは以前、戦闘のときでもめったに獣化しないと言っていた。本当に必要に迫られてどうしようもなくなったときだけだと。  それなのに……クレイドは獣化してまで自分を助けに来てくれた。 「どうしてそこまでしてくれるの……?」 「え?」  薄く目を開けてクレイドがこちらを見る。 「クレイドはどうしてそこまでして、僕を助けてくれるの?」  それはクレイドと出会った時から、ずっと疑問に思っていたことだった。  どうしてこんなにクレイドは優しいのだろう。  どうしてここまで、心を砕いて自分に接してくれるのだろう。  ただの親切にしては献身的すぎて、申し訳なくなるのと同時に嬉しくて、たまに心がぎゅっと痛くなる。 「どうしてかと聞かれると……」  クレイドが眠そうな声で答えた。 「そうですね……。あなたが私に似ているからかもしれない……」 「えっ?」 (似ている? この立派な人が? みんなに慕われて尊敬される騎士が?) 「それってどういう――」  その意味を問いかけようとしたが、クレイドはすでに瞼を閉じていた。寝てしまったようだ。  勢い込んで吸った空気が、落胆のため息に変わって「はぁ」と口から漏れる。 (さっきの今の言葉の意味を聞きたかったけど……)  また明日にでも聞くことにしようと思い直しながら、リオンはクレイドの顔を眺めた。  浅い呼吸を繰り返す口はわずかに開いていて、ときおりヒゲがぴくりと揺れる。苦しそうなクレイドを見ていると居てもたってもいられず、リオンは彼の鼻の頭にそっとキスを落とした。 「クレイド、ごめんね……。でもありがとう……」  それからリオンはクレイドの横に座り、いつまでもその滑らかな毛並みを撫で続けた。

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