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第8話⑥

 目が覚めると、目の前に裸のクレイドがいた。 「えっ……!?」  がばりと起き上がってから昨日の夜のことを思い出す。  そうだった。獣化して狼の姿になったクレイドが窓から入ってきて、そして話をして……体力が付きて眠り込んだクレイドを見守っていたつもりが、いつのまにか一緒に眠ってしまったようだ。  昨日の夜とは違いクレイドは人間の姿に戻っている。体力も回復したということだろう。  床で寝てしまったので身体はぎしぎしと痛んだが、発情期特有の重くだるい感覚は去っていた。どうやら発情期も無事に終わったらしい。  ほっと安堵の息をつき、眠り続けるクレイドの方へと視線をやった。 (綺麗だな……)  褐色の肌は滑らかで、朝の光を弾くように瑞々しい。顔の彫りも深く、目や鼻、唇などのパーツが慎重に配置したような端正な顔立ちは、息をしていなければ、石の彫刻だと言われても頷いてしまいそうだ。そしてそこからつながる太い首に逞しい肩、張り詰めた腕の筋肉……。  そこまで不躾に眺めてしまってから、はっと我に返った。 (こんなにじろじろと見るなんて……変態じゃないんだから!)  リオンはおかしな気分を振り払うように慌てて立ち上がった。寝室から掛け布を持ってきてクレイドの身体の上にかけると、自分は椅子に引っ掛けてあった外出用のガウンを素肌に引っ掛ける。  火照った頬を冷まそうとテラスに出た。  外はまだ暗い朝靄の中に沈んでいた。  空気はひやりとして冷たい。それがとても心地よい。大きく息を吸い込み、吐き出す。  その間にも空は刻々と色を変えていった。漆黒の闇は紺色へ、そして薄紫へと和らいでいく。その美しさにぼうっと眺めていたリオンだったが、「あ」と小さく声をあげた。  深い霧を押しのけるようにして地平線から陽が昇り始めていた。  幾筋もの光の束になって差し込む朝日が、雲を、地平線までひろがる青々とした麦畑を、その手前側の城壁と赤い屋根がひしめく街並みを、次々と浮き上がらせていく。  その神々しい光景を、リオンは瞬きを忘れて見つめた。  まるでまばゆい朝日に照らされ、自分の身体がまっさらになって生まれ変わっていくかのようだった。  どれほどのあいだ、目の前の光景に見惚れていたのだろう。 「リオン様」  その声に振り返ると窓のところにクレイドが立っていた。腰のところに掛け布を巻いただけの姿にリオンは思わずどきりとしてしまった。 「身体は大丈夫ですか?」 「えっ、あっ、大丈夫……。ク、クレイドは……?」 「ええ、こちらもすっかり」 「良かった……」  クレイドはそのままテラスに出てきて、リオンの隣に並んだ。 「美しい朝日だ」 「……うん、そうだね」  風景を見つめるクレイドの顔を、リオンはそっと盗み見た。  桃色から群青色へと変わっていく空を背景に、クレイドの瞳は差し込む白い光を浴びて七色に輝くようだった。  なんて綺麗なのだろう。まるで奇跡だ。  クレイドという存在も、空も、日の光に照らされたすべてのものが信じられないくらいに美しく見える。 「――ねえクレイド、前に僕に言ったよね。初めて会った時、この国に来るかどうか迷っている僕に『あなたが今見ている世界がすべてではない』って。『世界はもっと広くて美しい』って。『あなたにはそれを知る権利がある』って」  話し始めたリオンと向かい合うように、クレイドが身体ごとこちらに向いてくれた。そんな生真面目な優しさに胸が温かくなってくる。 「本当だった。クレイドの言うとおりだったよ。この世界は美しいものがたくさんあった。クレイド、たくさん綺麗なものを教えてくれてありがとう」  クレイドが目を見開き、そして目を細めて笑った。 「私が教えたのではないですよ。あなたの中にもともとあったものだ」 「え……?」 (僕の中にあったもの……? どういうこと……?)  その瞬間、ふっと訪れたものがあった。まるで光を浴びるかのように、一つの確信が心と身体の隅々までにすうっと行き渡ってゆく。  ――ああ、僕は生きていける。  ただそう思った。  このオメガという肉体できっと自分は生きていける。これから何度泣くことがあっても、自分はこの身体で生を全うする。この場所から繋がる道を、逸れずに歩いて行ける。  そしてこの先の道は、この人の隣で生きていきたい。  誰よりも真っすぐで優しい人の隣で、いつまでもこんなふうになんでもない話をして、美しいものを美しいねと話し合い、笑い合いたい。  ゆっくりと、昨日の夜に掴み損ねた気持ちが再び蘇ってきた。  小さな花が胸の中でつぎつぎと咲いていくようなこの気持ち。ただただ心が震えて、切なく胸が締め付けられるような感覚。 (僕、クレイドが好きだ――)   心の中で呟いた途端に、思いは確かな輪郭を持って心の中に浮かび上がってきた。 (僕はクレイドが好き。好きだ。好き……)  心の中で繰り返していくうちに、気持ちが心に根を張り、ぐんぐんと育っていくようだった。嬉しかった。身体に馴染んでいくこの言葉が誇らしい。ようやく自分の足場が定まっていくような心地がする。  リオンはおおきな呼吸をひとつして、口を開いた。 「クレイド、お願いがあるんだ。オースティンを呼んでくれる?」   ◇◆◇  リオンの部屋の衣装室にあるで何とか身支度を整えると、クレイドはオースティンを呼びに部屋の外へ出て行った。その間にリオンも全身をさっと濡れた布で拭い、適当な洋服を引っ張り出して着こむ。 「あれ……」  ふと寝台の枕もとの小箱に、クレイドから借りた十字架が入っているのに気が付いた。  十字架は夜に寝るときに外し、必ずこの小箱の中にいれるようにしていた。それが小箱に入っているということは、発情期で意識が朦朧としていた中でも、リオンは自分で首から外してそこに置いたらしい。  リオンは十字架を手に取り、いつもの通りに胸元に掛け、服の中にしまいかけてふと手を止めた。 「うん……よし」  しばらく思案してから、服の外に出すことにした。朝の光の中で鈍く光る十字架が自分の胸元で揺れている。リオンは微笑んだ。    テーブルの上に置かれた水を飲んで人心地ついたころ、クレイドがオースティンを伴って戻ってきた。 「リオン……!」  オースティンは憔悴して思い詰めたような顔をしていた。目の下にうっすらクマも出来ている。昨日は寝ていないのかもしれない。 「ごめん、リオン、何と言っていいのかわからないけど、僕は本当に――」  堰を切ったように謝罪の言葉を口にしようとするオースティンを手で留め、リオンは口を開いた。 「オースティン、待ってください。僕はあなたに言いたいことがあるんです」 「言いたいこと?」  オースティンは眉を寄せてその言葉を繰り返すと、押し黙った。  その顔が彼らしくないほどに陰鬱で少し驚いたが、まずは謝ることが先決だとリオンは勢いよく頭を下げた。 「昨日は失礼な態度をとってしまってすみませんでした! オースティンは僕のことを心配してくれたのに……。ごめんなさい!」  言い終えて顔を上げると、オースティンは驚いたような顔をしていた。クレイドはただ黙ってリオンの顔を見ている。  リオンはぎゅっと拳を握り、緊張しながらも話を続けた。 「それであの……オースティンにあれだけ酷いことを言っておいて、今さらこんなことをお願いするのも厚かましいとは思うんだけど……僕がここで生きるのを許して欲しいんです」 「……え? どういうこと?」  どうやらオースティンはリオンがこんなことを言い出すとは思っていなかったらしい。うまく言葉の意味を呑み込めていない様子だ。 「……僕がこの国に来たのは、行くところがなかったからです。育った村では生きていけなくなって、ここに逃げてきた。そんな消極的な理由でここに来たけど、この国の人たちは本当に良くしてくれて――」  初めてだった。母親以外の人に、ひとりの人として扱ってもらえたこと。 「本当に、本当に嬉しかった。僕、今までずっと自分が嫌いだったから。自分がオメガだということが嫌だったし、発情期も嫌で嫌で仕方なかったんです。こんな身体捨てたいって、何度も思ったこともあるけど」  リオンはクレイドの顔を見た。心配そうに見つめる灰色の瞳に(大丈夫だよ)と笑いかけた。 『あなたは汚くない』とリオンに触れてくれたクレイド。『美しい』とリオンを肯定してくれたクレイド。  美しいのはクレイドの心だ。自分はそんな美しいクレイドに見合う人間になりたい。    「でも……今は違う。自分の身体を捨てたいなんて思わない。上手く言えないけど……オメガっていうことを言い訳にして、楽な方向に流されたくないとも思うんです。どうしようもないことはあるけど、きちんと自分で考えて自分で選びたい。自分の足で立てる人間になりたいから。――だからお願いします。僕をこの国の人間にしてください」  もう一度深く頭を下げた。ゆっくりと顔をあげると、オースティンは今まで見たことのない顔をしていた。  酷く真剣で、そして同時にどこか痛みをこらえるように少しだけ歪んだ表情。琥珀色の瞳が潤み、日の光を弾いている。 「――リオン、わかったよ」  オースティンは噛み締めるように言った。 「君の気持ちはわかった。君をこのノルツブルクの民として受け入れよう」   話しながらオースティンはリオンの近くまで来ると、恭しく跪いた。そしてリオンの手の甲に唇を落としたのだ。 「――えっ」  そして驚愕するリオンに、オースティンは小さな声で呟く。 「汝こそ我……」  ほのかの温かい唇の感触を、リオンはただ動けずに感じていた。  何が起きたのか理解できなかった。  なぜ国王たるオースティンがリオンの前に跪き、自分の手の甲にキスしたのか。 (え……な、なんで……)  驚きと混乱の中で、リオンは助けを求めるようにクレイドの方を見た。  クレイドもまた、痛みを堪えるような顔でリオンたちのことを見つめていた。

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