25 / 52

第9話②

◇  厩舎で馬を借りて王城を出る。  カツカツと馬のひずめが石畳を叩く音が響く中、リオンはこれ以上ないほどの緊張で身体を固くしていた。 「リオン様、身体から力を抜いてください。そんなに離れていては落ちてしまいますよ」 「ごめんっ、でも……無理っ」 「大丈夫です。力を抜いて、私に身を任せて」  耳元でクレイドの声がして、リオンは心の中で悲鳴を上げた。 (無理、無理、無理……! こんなの聞いてない!)  リオンはほとんどパニック状態だった。  だってクレイドに後ろから抱き込まれるような体勢で一頭の馬に乗っているのだ。リオンが一人で馬に乗れないから仕方がないといえ、身体が密着して、クレイドの鍛え上げられた筋肉質なたくましい身体と背中が触れてしまう。  それだけではない。クレイドがしゃべるたびに耳に吐息がかかり、首筋をぞくぞくとした甘いしびれが伝ってくるのだ。 (どうしよう、どうしよう! 心臓が破裂しそうだよっ)  落ち着け、落ち着け……と心の中で唱えて必死に呼吸を繰り返す。  やがて広い石畳の街道の道幅が狭くなり、赤茶色の土の道に変わった。道の脇にも小さな赤いレンガ屋根の家が増え始める。  そのころにはなんとか動揺も収まり、周りの風景を眺める余裕が出来た。 空は青く、頭上を旋回する大きな鳥の鳴き声が響いてくる。集落を抜けると見渡す限り一面の麦畑に出た。  緑色と黄色を複雑に混ぜたような色合いの麦の穂がしなり、遠くまで風が走っていく様子が見える。その光景を馬上からリオンは息を呑んで眺めた。 「綺麗だね。絨毯みたい」 「そうでしょう。この時期の麦は日ごとに色を変えますからね」 「ということは、今日しか見れない景色ってこと?」 「その通り。明日にはまた違う色になる。ノルツブルクは美しいでしょう?」  遠くの景色を目を細めるクレイドの顔を見あげながら、リオンは思い出した。 「そういえば最初の頃言ってたよね、ノルツブルクには美しいところがたくさんあるから、いつか連れて行ってくれるって」 「ええ。ようやくですね。遅くなりましたが、やっと連れてくることが出来ました」  嬉しそうな声音に、胸が温かくなった。  ちらりと後ろを向くと、深く被ったフードの下の灰色の瞳がこちらを見ていた。またドキッとしてしまい、慌てて目を逸らす。  そして今頃気が付いた。 (……そういえばクレイド、初めて会ったときの格好してる。懐かしいな)  今日のクレイドは紺色の長いマントを身につけていて、胸元にはノルツブルクの紋章が入ったブローチを付けている。  あのときも今と同じようにクレイドはフードを深くかぶっていて、そこから見える灰色の瞳が綺麗だと思ったのだ。そしてフードを脱いでくれたときには、端正な顔立ちに目を奪われた。 (もしかして、そのころからクレイドに惹かれてたのかな……なんてね)  リオンは口元に笑いを浮かべた。そんなことを考えてしまうくらいに、リオンは二人きりの時間に浮かれていたのだ。  途中綺麗な水が沸きだす泉に寄って休憩をして、またしばらくのあいだ馬に揺られると大きな街に着いた。どうやら目的地はここらしい。街の馬屋に馬を預けて身軽になってから中央広場の方へと足を延ばした。 「すごい……! こんなに大きい街に初めて来たよ」  石畳の大きな広場には露店が並び、香辛料や果物、布地や工芸品が所狭しと並んでいる。子どもたちが駆け回り、商人たちが威勢の良い声を張り上げている。食べ物も売っているようで、さっきから肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。 「このあたりでは一番大きな街ですよ。何か食べる物を買ってみますか?」 「えっ、いいの!?」 「もちろんですよ」 「それじゃあれを食べてみたいな」  ずっと気になっていた肉の串焼きの露店を指さしたときだ。 「うわぁ、あぶねえ!」 「何やってんだっ」  背後で男たちの悲鳴と怒鳴り声があがった。  驚いて声の方を見ると、すぐそこの大通りへと続く出口で、大人の背丈を超えるほどの大きな荷台がぐらぐらと揺れているのが見えた。周囲の人たちは慌てて荷台のそばから離れていく。と、そのとき小さな男の子が転んだ。そこへ狙ったように荷台が傾いていく。 「――あ」  危ない! とリオンが悲鳴をあげそうになるのと、クレイドが走り出したのは同時だった。  クレイドは素早い身のこなしで荷台の下敷きになりかけている男の子と抱えると、横っ飛びに転がった。  どおん、と大きな音を立てて荷台が倒れる。 「クレイド!」  リオンは慌てて駆けだした。  砂ぼこりが舞いあがる中、クレイドはしっかりと男の子を抱いたまま石畳の上に蹲っていた。そのすぐそばには荷台が倒れている。  一瞬でも遅れていたら男の子もクレイドも大きな荷台に落ちつぶされていただろう。間一髪だ。  ひやりとしながらクレイドに駆け寄る。 「クレイドっ、大丈夫⁉」 「ええ、大丈夫です」  ゆっくりと起き上がりながらクレイドが答えた。  見たところ怪我もなさそうだ。リオンは「良かった……」とようやくほっと息をついた。  クレイドは抱えていた男の子を立たせて全身の状態を確認した後、膝をついた体勢のままで小さな顔を覗き込む。 「大丈夫だったか? 痛いところは?」  男の子は自分の身に何が起きたのかよくわかっていないようだった。きょとんとした顔のまま、ふるふるっと首を振る。 「だ、だいじょうぶ」 「そうか、良かった」  クレイドが安心したように大きく息をつく。そうして男の子の頭を撫で立ち上がったとき、人込みをかき分けて男の子の母親らしき女の人が走ってきた。 「ありがとうございます! うちの子を助けていただいて――」  母親の言葉がそこで止まった。  クレイドの顔を見て急にぎょっと目を見張ったのだ。母親の顔に驚愕と恐怖が広がっていく。 (え……?) 「――獣人だ」  どこからともなくそんな声が聞こえてきた。 (獣人……? 獣人ってクレイドのこと?)  リオンははっとしてクレイドの方を見た。いつのにかクレイドが深くかぶっていたフードが脱げて、毛に覆われた狼の耳が露わになっていたのだ。  クレイドは素早くフードを被って耳を隠したが、ざわめきは収まらない。 「獣人……? どうしてこんなところに」 「怖いな」 「近寄っちゃだめだわ、行きましょ」 人々が口々に呟き、雑踏に嫌な囁き声が広がっていく。  信じられない言葉に唖然として、リオンは周囲を見回した。  人々はクレイドから距離を取り、恐怖と嫌悪の視線を向けている。男の子の母親も息子を抱きしめたまま、強張った青い顔でクレイドを見あげたままだ。 (なんで……? どうして……)  クレイドは騎士だ。ノルツブルクの紋章を付けていることや帯剣していることから見てわかるはずだ。  それに今だって、クレイドが身を挺して助けなかったら男の子は荷台に押しつぶされていた。それなのにどうして、こんな言葉と視線を向けられているのだ?  唖然としていると、クレイドに腕を引かれた。 「リオン様、行きましょう」 「え」  リオンはわけもわからないままにクレイドに手を引かれ、雑踏を離れた。大通りからさらに細い裏通りまで歩いてくると人影がなくなり、ようやくクレイドの足が止まる。  ふうと息をつき、クレイドがこちらを見た。 「すみません、串焼きを買うのを忘れましたね。せっかく楽しみにしていたのに申し訳ない。今度王宮で作ってもらうように頼んでみますので、今日のところは諦めていただくしかないですね」  穏やかで何事もなかったようなクレイドの言葉に、戸惑いの気持ちが一気に激情に変わった。 「串焼きなんていらないよ! そんなのどうでもいい!」 「リオン様……?」  クレイドが驚いたように目を見張っている。でも込み上げてくる感情を抑えられない。クレイドの耳を見て「獣人だ」と心無い言葉を投げつけてきた人たちに対する怒りが、今さらのように湧き上がってくる。 「なんなの、あれ!」  怒りで震えながらリオンが言うと、クレイドは目を瞬いた。 「あれとは、なんでしょう?」 「さっきの人たちだよ! 獣人が野蛮だとかなんだとか言ってた!」  クレイドは「ああ」と頷いた。そして困ったように笑いながら首を傾げる。 「獣人はもともと気の荒い性質の者が多く、慣れていない人間は怖がるものなんですよ。しょうがないのです。獣人は身体も大きいですし力も強いので、一般の方たちが怖がるのも無理はない」 「なに、それ……? なんで……そんなこと言うの?」 「え?」 「クレイドは立派な騎士だよ。誰よりも優しい人だ。それが獣人だってだけであんなふうに……。僕、悔しいよ……」  リオンの目からはぽろぽろと涙が流れていた。  腹立たい気持ちも悔しい気持ちもある。だけどそれ以上に、差別をされても受け入れ、何事もなかったよう振る舞っているクレイドの姿がとても悲しかったのだ。  思い返せば初めて会ったときもクレイドはフードを深くかぶり、「怖がらせてしまうから」と言って自分の耳と尾を隠していた。あのときの悲しそうなクレイドの表情を思い出すと、心が鋭利なもので突き刺されたように痛い。 「リオン様……」  クレイドは困ったように呟き、涙を流すリオンをそっと抱き寄せた。 「すみません、あなたに嫌な思いをさせてしまいましたね」 「……クレイドが、……謝ることじゃ、ない……」 「ですが」  クレイドは心底困り果てたように言葉を切った後、そっとリオンの顔を覗き込んできた。 「わかってくれる人がわかってくれているなら、それでいいのです。本当に私は気にしていないので」  優しい顔で言い聞かすように言われたが、リオンは泣きながら黙って首を振った。  それでいいなんてリオンには思えなかった。  いいはずがない。だけどクレイドのために自分が何も出来ないことが悔しい。  クレイドは黙ってそんなリオンの顔を見つめていたが、ふいに思いついたように口を開いた。 「あなたを連れて行きたいところがあるのですが、一緒に行ってもらえますか?」 「え……? どこに行くの?」 「私の故郷です」  リオンは涙を拭うのも忘れ、きょとんと目を瞬いた。  

ともだちにシェアしよう!