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第13話②

「えっ? 番……?」  驚きのあまり手からフォークが滑り落ち、皿の上でがちゃんと大きな音を立てた。   「ちょ、ちょっと待ってください。番になるって……アルファがオメガのうなじを噛んで成立させる契りのことですよね?」  アルファとオメガの番の契りは、アルファがオメガのうなじを噛むことで成される。契りを交わすとお互いのフェロモンしか感じ取れないようになり、他の人にもフェロモンが作用しなくなる。  その点はオメガにとって大きな利点だ。番を持てば、誰彼かまわず性行為に誘うフェロモンを出さなくなるのだから。さらに、番を持ったオメガは発情期が軽くなるという利点もある。  だが一方でこの契りには、『一度結んだ番関係は解消すること出来ない』という致命的な欠点もある。要するに、一度結んだら何があっても離縁できない婚姻のようなものなのだ。 『だからね、リオン。もし将来アルファの人間を好きになったら、番関係を結ぶかどうかは慎重に考えないとだめよ』  と、母親には何度も言い聞かされてきたリオンにとって、オースティンの提案は信じられないものだった。 「あの……本気で言ってます?」 「もちろん本気だよ」 「いや、でも――」  リオンはそっと振り返って、部屋の隅に控えているエルを見た。  エルの顔は無表情で動じた様子はない。ということは、エルは事前に話の内容を知っていたということだ。  目の前のオースティンも真剣そのものだし、どうやら冗談を言っているわけでもなさそうだ。  ……とは言っても――。 「あ、もしかして……|妾《めかけ》になれという意味ですか?」  村にいた頃に村長の息子ジルから『妾にしてやる』と言われたことをふと思い出し、リオンはつい口走ってしまった。オースティンは驚いたように「まさか!」と否定する。 「君を妾になどとするつもりはないよ! 君には僕の伴侶になって欲しいんだ。そして一緒にこの国を盛り立てて欲しい」 「ええっ?」  伴侶になる? 一緒にこの国を盛り立てる? さらに信じられない言葉が続き、リオンは完全にパニック状態だった。オースティンの言葉の意味をうまく呑み込めない。侍従にするならまだしも、伴侶にしたいだなんて……。 「訳がわかりません! なんで僕みたいな人間を伴侶に? 僕は確かにオメガ――ブルーメですが、男ですよ? 伴侶にするにはもっとふさわしい方がいらっしゃるはずだ!」 「リオン、落ち着いてくれ。突然こんなことを言って驚かせてすまないとは思っている。だけど僕は本気だ」 「無理です! 僕はあなたの番なんてなれない! だって僕は……僕は――」    『クレイドのことが好きなのだから』  そう言いかけてリオンは声を詰まらせた。ふいにおかしな感覚が身体を襲ったのだ。 (――あれ? ……身体が、熱い……?)    さっき飲んだ食前酒の影響なのだろうか、胃が燃えるよう熱い。そこから広がった熱が身体中に伝わっていって、ぞくぞくとした感覚を引き連れてくる。  くらりとめまいがして、リオンは椅子の上からずり落ちそうになった。 「……リオン!? どうしたんだ?」 「なんか……身体が、急に……」  話しているうちに呼吸まで上がってきた。胸を押さえて息を乱すリオンを見て、オースティンが慌てたように立ち上がりテーブルのこちら側に回ってくる。 「大丈夫? 顔が赤いよ。もしかしたら体調が悪い? 熱でもあるのかな」  オースティンが指を伸ばし、リオンの額に触れる。その瞬間、身体が燃え立つように熱くなった。あたりに甘い匂いが漂い始め、オースティンがはっと驚いたようにリオンの顔から手を離した。 「まさか……これは発情期か?」 「え……?」  オースティンに問われ、リオンは目を見開いた。言われてみれば、この感覚は発情期の症状にとても近い。  だけどそんなはずはない。つい先日に発情期は終わったばかりだし、次の発情期まで後二か月はあるはずだ。 (おかしいよ……。どうしてこんなにいきなり……?)  ぐらりと頭の芯が揺れ、耐え切れずにリオンはテーブルに身体を伏せた。どんどん下肢に熱が集まっていき、リオンの身体からは濃厚なオメガのフェロモンが立ち昇り始める。  オースティンが手のひらで鼻と口を覆ってリオンから距離を取った。 「とにかく抑制剤を飲もう。このままじゃまずい」  オースティンは振り返り、エルを呼んだ。 「エル、急いでドニを呼んできてくれ。ブルーメの抑制剤を持ってくるように伝えるんだ」 「嫌です」  はっきりとしたエルの拒絶の声が部屋に響き、オースティンが動きを止めた。 「……なんだって? 今何と言った?」  虚を突かれたような声でオースティンが聞き返す。間髪入れずエルが答えた。 「嫌だと言ったんです」 エルが毅然と言い放ち、部屋の中が怖いくらいにしんと静まり返る。 リオンは息を荒げながらも、茫然と二人の方を見た。 (え……? 嘘でしょ……?)  信じられなかった。侍従であるエルが、王であるオースティンの指示を拒絶するなどあり得ないことだ。  オースティンは呆気にとられたような顔をしていて、エルは固い表情でオースティンを見ている。  するとオースティンの顔がふいに険しくなった。 「まさかとは思うが……リオンの食事に何か変なものを混ぜたのか?」  オースティンが低い声で聞く。エルがぐっと唇をかみ、ゆっくりと頷いたのが見えた。 「……ええ、そうです。ブルーメの欲情を促進させるという薬草の抽出液を、薬膳酒に混ぜました」  エルの言葉にリオンははっとした。確かに最初に飲んだ薬膳酒には、妙な味と香りがあった。 (あれに薬が入ってたんだ……)  その薬のせいで、リオンは今無理やり発情状態を引き起こされたということか。  オースティンが信じられないというような顔で首を振る。 「なんということを……。なぜそんなことをした?」 「それは……すべてあなたのためです、陛下!」  いきなりエルは大声を出した。オースティンが目を見開く。 「僕のため……?」 「ええ、そうです! なぜ早くリオン様を番にしないのです? 政情の不安定な今、王がブルーメの番を得ることはなによりも急務なはず! この国には他にブルーメはいない! この人を番にして子を作らなければ、王家の血筋は絶えてしまうのですよ? どうせこの人はすぐに発情して訳が分からなくなるのだから、さっさと番にしてしまえばいいのです!」 「……エル、黙れ」 「いいえ、黙りません。何を躊躇する必要があるのです? そんなことではクレイド隊長に取られてしまいますよ? 知っていますか、隊長がこの人を見る目の色を! 隊長がいない今、この人を無理やりにでも番にしなくては取り返しのつかないことに――」 「黙れ!!」  オースティンの怒号に、リオンはびくっと身を強張らせた。  いつも穏やかな彼がこれほど激怒するとは信じられない。エルも真っ青な顔で固まっている。  オースティンは冷たい眼差しでエルを睥睨し、低い声で唸るように言った。 「……お前には失望したよ。まさか大事なブルーメに危害を加えようとするなど」  エルが慌てて首を振った。 「ち、違います! 僕は危害を加えようだなんて思ってません!」 「言い訳も御託もいらない。ここを出て行け」 「そんな……私はただ、陛下のために……」 「出ていけ。ここで切り捨てられたいか」  オースティンの冷たい最後通牒に、エルは力なく項垂れた。足を引きずるようにして部屋を出て行く。  しんと静まり返った部屋の中には、リオンとオースティンだけが残された。  オースティンは唇が切れそうなほどに強く唇を噛みしめていたが、やがて大きな息を吐き顔を上げた。 「大丈夫か、リオン」  オースティンがゆっくりと近づいきて、そっと肩に触れる。 「……ぁっ」  リオンはびくんと体を揺らした。触れられた刺激で、すでに反応しかけていた身体からとろりとした濃厚なオメガのフェロモンが立ち昇ったのが自分でも分かった。それに反応するように、オースティンの身体からも芳しい芳香が滲みだしてくる。 「……ああ……リオン」  切なげな声に、リオンは顔を上げオースティンを見た。  オースティンの瞳はぎらぎらと光っていた。  オメガを求めるアルファの本能が暴れ出そうとしているのだ。 頭の芯がぐらりと揺れ、また体温が一気に跳ね上がる。 (欲しい……)  身体の奥底からそんな声が聞こえた。 (この人が……このアルファが欲しい……)  込み上げてくる熱い衝動にリオンは喘いだ。 「ん、ぁ……オースティン……助けて……」  縋りついては駄目だと冷静な頭では思うのに、オースティンに向かって手を伸ばしてしまう。 「リオン――……」  オースティンの琥珀色の目がどろりと溶ける。  ああ――とリオンは微笑んだ。  早く触って。  うなじを噛んで。  あなたの番にして。  ゆっくりとオースティンが近づいてくる。そしてリオンの手を取る――。  そのときだ。  急にオースティンが後ずさり、背中を丸めるぶると震え始めた。そして顔を上げたオースティンは、いきなり自らの左腕に噛みついた。  自分の腕に歯を立てたながら、ふうふうと苦しそうに息を荒げているオースティンは瀕死の獣のようだった。腕からは血が滴り落ち、あたりには血の匂いが立ち込めていく。  衝撃の光景に、ゆっくりと頭が冷えていく。 「あ……オースティン、血、血が……」  リオンが青ざめながら言うと、ようやくオースティンは口から腕を離した。 「……大丈夫だよ、リオン。君を襲ったりなんてしない。無理やり番になんてしないから」  青い顔で滝のような汗を流しながらもオースティンがほほ笑む。  言葉が出なかった。自らの身体を傷つけてまで、オースティンはアルファの性衝動を抑えてくれたのだ。 「すぐに医者を呼んでくる」  オースティンはそう言うと、さっと身を翻し部屋の外へ出て行く。  朦朧とした意識を保っていられたのはそこまでだった。  ふっと目の前が真っ暗になり、リオンは水の底に沈んでいくようにゆっくりと意識を失った。

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