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第14話①

「ようやく体温は下がりましたねぇ。他におかしなところはあります? ない? なるほど、それなら宜しい」  リオンを診察したドニが書類に書付をしながらふむふむと頷いた。 エルのせいで一時的な発情期を起こしたリオンは、あの後駆けつけてきたドニらによって発情抑制剤を投与された。だがなかなか発情状態は収まらずに深夜に発熱し、そのまま丸一日高熱に苦しめられた。ようやく熱が下がったのはついさっきのことだった。 「やはり薬で無理やり発情期を起こされ、身体に負担がかかったのでしょうね。しばらくは安静にしていたようがいいと思いますよ」 「……ありがとうございます」  寝台の上に腰かけたままでリオンが頭を下げると、ドニは困ったように笑いながら頭を撫でてくれた。 「美味しいものを一杯食べて、一杯寝ることです。そうしたら嫌なことなんて忘れられますからねぇ」  リオンは俯いて唇を噛んだ。 「あの……オースティンの腕はどうなんでしょうか?」 「ああ、陛下の腕の傷ですか? 大したことはありませんよ」  事もなげにドニが言ったが、とても信じられなかった。 「でも血が出てました。僕のせいでオースティンは……」  一昨日の夜、リオンのフェロモンに当てられ発情状態になってしまったオースティンは、理性を取り戻すために自分の腕を噛んだのだ。意識が朦朧としていたのでよく覚えてはいないが、血もたくさん流れていたような気がする。かなり痛かっただろう。 「ん~……そりゃあ思いっきり噛みついたみたいですからねえ。でも陛下は有名なノルツブルクの軍教育を受けた騎士でもあるのですから、心配は無用ですよ。それよりも本能に負けてリオン様のうなじを噛んだりしなくて本当に良かった! 咄嗟に腕を噛んでブルーメのフェロモンに逆らうなんて、さすが陛下ですよねえ」  ドニは感心したようにうんうん頷き、それからリオンの顔を見てほほ笑んだ。 「今回のことはリオン様は何も悪くない。むしろ被害者なのですから、『ごめんなさい』よりも『ありがとう』の方が陛下は嬉しいと思いますよ?」 「わかりました……」  ドニは書類と診察道具をまとめて立ち上がりかけたが、何かを思い出したようにリオンを見る。 「そういえば陛下がお見舞いに来たいとおっしゃっていましたよ。許可してもよろしいですか?」  リオンは一瞬迷ったが、「はい」と頷いた。 「それじゃその旨をオースティン陛下に伝えておきますね。たぶん飛んできますので、そのおつもりで」  ドニが退出していき、ふうと息をついてリオンはベッドから起き上がった。丸一日寝ていたので、足元が少しふらついた。思ったよりも体力を消耗しているようだ。  寝衣から普段着に着替え、テーブルの上に置いてある水差しの水を飲む。 「はあ……」  ぼうっとテーブルの上のランプの灯りを見つめながら、リオンは大きなため息をついた。  今からオースティンと会わなくてはならないと思うと気が重かった。一昨日の夜からいろいろなことが起こりすぎて、気持ちが追い付かないのだ。  突然『僕の番になって欲しい』とオースティンに言われたこと、そして発情を引き起こす薬をエルに使われたこと。  そして何よりも――エルの言葉によって芽生えたある疑問と疑惑が頭の中で膨れ上がってしまい、自分でも暗い感情をコントロールが出来なくなりつつあった。  リオンは胸元を探り、首からぶら下げた十字架を握りしめた。 「クレイド……」  クレイドがこの国を出発してまだ七日ほどなのに、もう何か月も離れているような気がした。  クレイドは今、何をしているのだろう。きちんと食事はしているのだろうか。休息は取れているのだろうか。  『ヴァルハルトとの会談は、悪い方向には行っていない』というのがノルツブルクとしての見解だとは聞いているが、現状はわからない。  気持ちを落ち着けるために何度も深呼吸を繰り返していると、扉がノックされる音が聞こえた。はい、と返事をすると扉が開く。 「――オースティン」  心配そうに眉を寄せたオースティンが立っている。ドニに報告を受けて急いで来たのだろうか。少し息が上がっているように思えた。   「リオン、具合はどうだい? さきほどドニからは説明を受けたけど、調子が悪いところはない?」 「僕は大丈夫です……それよりもオースティンの腕が」  視線を下げると、オースティンの腕に巻かれた白い包帯が目に入った。オースティンはひょいと眉を持ち上げてみせる。 「僕の方は全然平気だよ。ドニがうるさいから大袈裟に包帯なんてつけてるけど、こんなもの今外したっていいんだよ?」 「いえ、それはさすがに駄目です」  冗談めかして言うオースティンに、思わず笑いが漏れ出た。オースティンもほっとしたように微笑む。 「ここで立ち話もなんだから、中に入ってもいいかな?」 「もちろんです」   窓際の長椅子に並んで腰を下ろすと、オースティンは顔を引き締め、さっそく話を切り出した。 「エルのことだが……侍従の任を解いたよ。王宮から下がらせて謹慎させている」 「そう、ですか……」  「だが謹慎がとけても、リオンの周辺に配置しないようにするから、安心してほしい。リオンには本当に済まないことをした」  オースティンが頭を下げる。リオンは慌ててしまった。 「辞めてください! オースティンが謝ることじゃないです!」 「でも僕の監督不行き届きだよ。エルが君のことをよく思っていないことには気付いていたのに、手を打たなかった。僕の責任だ」  オースティンは沈痛な面持ちだ。それはそうだろう。心を許して一番近くに置いていた侍従が裏切ったようなものなのだから。   「……エルは……僕が昔スラム街で拾った子供だったんだ。恩を感じていたのか、ずっと僕に心を尽くして仕えてくれていた。……彼なりにこの国を憂いて思い詰めていたのだろうけれど、どう考えてもやりすぎだ。とても見過ごせるものではない」  オースティンの深い苦悩が伺えて、これ以上オースティンを責める気にはなれなかった。 エルに対する憤りがないわけはなかったが、事情を聞いてしまえば同情の気持ちも湧いてくる。最後に見たエルの項垂れた姿を思い出すと、切なくなってきてしまった。 「エルのことについてはもういいです。オースティンは悪くないと思いますし、エルも自分のしたことの責任は取ったんですよね。僕から言うことは何もありません。それよりも――」  リオンは息を吸い込んで気持ちを整えてから口を開いた。今ここで、どうしても聞いておかないことがあった。 「教えて欲しいんです。一昨日エルが言ってた、『僕を番にして子を作らなければ王家の血筋は絶えてしまう』とは何のことですか?」  リオンは怯える気持ちを抑え、しっかりと目を合わせて言った。  オースティンはそんな様子をじっと見ていたが、やがて覚悟を決めたように頷いた。 「わかった。話そう……このノルツブルクの国のことを」  オースティンは遠くを見るようなまなざしで、静かに話し始めた。 「ノルツブルクは小さな国だ。東には大国ヴァルハルト、西には大国ギラン、南はいくつもの多民族国家がひしめいている。たいした資源も武力も持たないこの国が、たくさんの強国に囲まれながらもこの百年間どうやって国を保っていたと思う? ……それはね、ノルツブルクが所謂『ブルーメ外交』をしていたからだ」 「ブルーメ外交……?」  オースティンが頷く。その横顔は、まるで自分の罪を告白する咎人のように暗かった。

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