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第16話①
王宮の前の石畳の広場では、帰還したらしい騎士が十人ほど、他の騎士たちに囲まれ無事を喜び合っている。その中心にクレイドの姿があった。クレイドは騎士団の立ち襟の正式な制服の上に、赤い外套を纏っている。怪我をしているような様子はなかった。
「クレイドっ!」
リオンの声に大勢の視線が集まる。クレイドがゆっくりと顔を上げた。
「リオン様……?」
クレイドの顔を見た瞬間、胸がじんと熱くなって全てのことが頭から吹き飛んでしまった。リオンはクレイドに駆け寄ると、大きな身体に抱き着いた。
「クレイドっ……良かった……無事で……!」
しっかりとした太い腕がリオンの身体を受け止めてくれる。ノルツブルクの紋章が付いた彼の赤い外套からは埃と汗の匂いがした。でもその匂いさえも愛おしい。ただただ、クレイドが無事だったということが嬉しかった。
リオンは安堵の涙を浮かべながら、クレイドの顔を見上げた。
「おかえりクレイド」
「……ただいま帰りました……リオン様」
クレイドは少しやつれたような顔をしていた。強い疲労の色も見える。きっと大変な日々だったのだろう。
「本当に……本当に無事で良かった。ずっとこの十字架を握って祈ってたんだ。クレイドが無事に帰ってくるようにって……」
「……ありがとう、ございます」
(あれ……?)
ふとリオンは違和感を感じた。
リオンがじっと見つめているのにクレイドと視線が微妙に合わないのだ。それに、心なしかリオンの身体を抱き留めた腕が強張っている。帰還したばかりで疲れているのだろうけど、それにしても様子がおかしい。
戸惑っていると、クレイドにそっと身体を押し返された。
「リオン様、私はこれから陛下に報告を申し上げなくてはなりません。のちほど挨拶に伺いますので……ここで失礼いたします」
クレイドはリオンに向かって一礼した。そして乗っていた馬の手綱を引いて歩き出そうとする。
「え……?」
一瞬唖然として、慌ててクレイドの腕を掴んで引き留めた。
「ちょっと待って! ねえクレイド……なんでこっちを見てくれないの?」
「……」
「僕がこの前変なことを言ったから?」
クレイドの表情が一瞬、痛みを堪えるように歪んだ。
「それは……」
クレイドはそう言ったきりで黙り込んだ。
周りで帰還を喜んでいた騎士たちも、リオンとクレイドのただならない雰囲気に気が付き、ちらちらと視線を投げかけてくる。それに気が付いたクレイドが固い顔のままで言った。
「リオン様、話はあちらでしましょう」
「……うん」
隣にいた出迎えの騎士に馬を預け、クレイドはリオンを伴って広場の外の方に歩いていく。
その少し後ろを歩きながら、さっきドニと話していて固めた決意が、だんだん揺らいでいくのをリオンは感じていた。
『クレイドへの気持ちを大切にしよう』
そう思っていたが、当のクレイドに固い態度を取られて、目の前で扉を閉ざされたような気持ちになる。
(だけど……僕は決めたんだ)
弱気になっていく己をしかりつけ、リオンは大きく息を吸い込んだ。
どんなに拒まれてもどんなに苦しくても、クレイドを好きだという自分の心を大切に守ると決めたのだ。自分のためにも、誠意を見せてくれたオースティンのためにも、今クレイドにきちんと伝えなくてはならない。
石畳の道を進み厩舎近くの水場まで来ると、完全に人気がなくなった。立ち止まったクレイドがくるりとこちらを向く。
ようやく視線が正面から合う。クレイドは何かを決意したような強い瞳をしていた。
「このような振る舞いはお控えください」
何を言われても怯まないと決めていたのに、実際にクレイドの冷たく固い言葉を聞くと一瞬息が詰まった。ぐっと奥歯を噛み締め、細く息を吐きだしてからしっかりとクレイドを見上げる。
「僕は……何かいけないことをしたの?」
「……そうではありませんが、適切な距離を取ったほうが良いということです」
「適切な距離?」
クレイドの言っていることがわからなかった。緊張と動揺で身体が細かく震え、頭が半分も動かないのだ。でも負けるわけにはいかない。リオンは拳を握り、懸命に言葉を探した。
「どういうこと? 言っている意味がわからないよ」
「……あなたは、オースティンの番になるのでしょう」
「え?」
低い声で呟くように言われ、リオンは目を見開いた。
「聞きました。あなたがオースティンの番になられると……おめでとうございます」
「な……」
その瞬間、リオンはまるで固い拳で心を真上から叩き潰されたような衝撃に襲われた。無残に潰された心から、怒りや悲しみの負の感情が外に噴き出す。その勢いに押され、気が付くとリオンは叫んでいた。
「番になんてならない! 僕が好きなのはクレイドだ! この前もそう言ったじゃないか!」
「……リオン様」
見開いた灰色の瞳に動揺のようなものが浮かんだ。だがそれも一瞬で、クレイドは首を振り、躊躇を断ち切るように言う。
「……駄目だ……いけない……リオン様のお気持ちを受け入れることは……できません」
はっきりとした拒絶の言葉に、いきり立っていた感情が一気にしぼんだ。どうしようもなく身体の力も一緒に抜けていく。
やはりこの気持ちはクレイドに届かないのか。この想いはクレイドにとって迷惑でしかないのか――。
胸の奥に鋭い痛みが走り、涙がじわりと滲みだしてくる。それでも泣きたくない一心で懸命に涙をこらえていると、クレイドがぽつりと言った。
「あなたは勘違いをしています」
「……え……?」
リオンはクレイドの顔を見た。
クレイドは俯いたままで、まるで地面に空いた暗い穴の底をじっと見つめるような顔つきで言葉を続ける。
「あなたが一番つらいときに、助けたのが私だったというだけのこと。あのときリオン様を迎えに行ったのがオースティンだったら、きっとリオン様はオースティンを好きになっていた」
「何……それ……。どっちに先に会ったかなんて関係ないよ。もし先にオースティンと会ったとしても、絶対にクレイドのことを好きになってた」
「いいえ、きっとそんなことはない。リオン様が私に感じている気持ちは、卵から孵ったヒナが、初めて見たものを親だと認識する刷り込みのようなものです。恋じゃない」
刷り込みのようなもの? 恋じゃない?
その言葉に、心と身体がまとめて捩じ切られたような気がした。
止めようと思っていた涙が決壊し、ぼろぼろと一気に溢れ出てくる。
「あなたが、否定、しないで……」
リオンの苦し気な涙声に、はっとクレイドが顔を上げた。
「リ……リオン様」
クレイドが目を見開き、動揺するように視線を揺らす。リオンは流れ出る涙を腕で拭いながら、それでもクレイドを睨みつけた。
「初めてだったんだ……こんな気持ち。ずっと僕、自分は人間だけど……人間じゃないような気がしてて……」
ずっと普通の人間に憧れてた。みんなと同じようになりたかった。でもオメガとして生まれた性を変えることは出来ず、一生このまま一人寂しいところで生きていくのだと思っていた。
「だけどクレイドと出会って……こんな僕でも生きてていいんだって、初めて思えたんだ。ようやく人並みの人間に……なれたような気がした」
しゃくりを抑えながら懸命に話すリオンのことを、クレイドは息を止めたように黙って見つめていた。
「クレイドに会えたことは……僕にとって奇跡だったんだよ。だけどあなたにとっては違った。あなたは最初から、僕をオースティンの番にしようとして……会いに来たんだもんね」
「リオン様、俺は」
クレイドがはっと口を開いた。何かを言いかける。でも聞きたくなかった。
「もういい」と言い捨て、リオンは踵を返すとその場から逃げ出した。
「リオン様! お待ち下さい!」
クレイドの声が後ろから追いかけてくる。
――追いつかれる。
リオンは咄嗟に背丈ほどの高さがある生け垣の中に飛び込んだ。迷路のように入り組んでいる通路を右に左に走っているうちに方向がわからなくなったが、それでも走り続けた。
後方からはまだクレイドの声と気配がする。リオンは隠れるようにして大きな木の茂みの後ろへとにしゃがみ込んだ。自分の口を手で塞ぎ、はあはあと弾む息と気配を殺す。
「リオン様――! どこですか!」
リオンを見失ったらしいクレイドは、慌てた様子でリオンの名前を呼びながらも遠ざかって行った。
完全にクレイドの気配が無くなり、あたりはしんと静まり返った。穏やかな風に木の葉が揺れる音と鳥の声だけが残る。ほっとした瞬間、またぽろぽろと涙がこぼれた。
(もうめちゃくちゃだ――)
ついさっきまでは、クレイドときちんと向き合って正直な気持ちを伝えようと決心していたのに。
それなのに、なぜあんな態度をとってしまったのだろう。自分の思い通りにならないから怒鳴って泣くだなんて、子供と同じだ。
情けなくてつらくて、リオンは茂みの中で小さく丸まりながら泣き続けた。
まるで小さな子供に戻ってしまったかのように心もとなくて、涙はいくらでも出た。
そしてふと思った。
(そうか……僕にはもう、誰もいないんだ……)
慈しんでくれた母親はいない。自分の心さえもあげたいと思っていたクレイドからも拒絶された。
自分には誰もいない。何も……何も残っていない。
上を見上げると青い空が広がっていた。すぐそこには美しい黄色の花も咲いている。穏やかな風が吹いている。
それなのに何も感じなかった。心が麻痺したかのように、悲しみまでもがどんどん遠ざかっていくようだ。
どれほどのあいだ茫然としていただろう。
随分長い間、リオンは茂みに背中をあずけ手足を地面に投げ出しながら、暮れていく午後の日差しを見ていた。
「誰かそこにいるのか?」
誰もいないはずの庭園の隅に、聞き覚えのある声が響いたのはそのときだった。
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