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第16話②
誰かがガサゴソと茂みをかき分けて近づいてくる。
姿を現したのは――下働きらしい服装に身を包み、手に箒を持ったエルだった。
「え? リオン様? なんでこんなところに?」
「エル……」
茫然とお互いの顔をしばらく見つめ合っていると、突然エルが何かに気が付いたように顔を強張らせた。
「どうして泣いてるんですか? どうして泥だらけなんですか? ――ッもしかして誰かに襲われたんですか!?」
しゃがみ込んだエルが、リオンの肩を掴み慌てて顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか!? 服は……脱がされてないですね。怪我も……ないみたいですが。どんな奴に襲われたんですか? 顔は覚えてますか!?」
捲し立てるようなエルの勢いに、リオンは驚いて茫然としてしまった。エルが「あれ?」と首を傾げる。
「もしかして違いましたか? 俺の勘違い?」
「あ……うん。……誰にも何にもされてないけど……」
「ほんとですか!?」
「う、うん」
リオンが頷くと、エルは一気に脱力した。
「良かった。本気で焦りましたよ。紛らわしいな」
「……ごめんなさい」
「いえ、何もなかったのなら良かったですけど」
エルは心底安堵したように息を吐く。リオンはその顔をじっと見つめた。
(もしかして心配……してくれたの……?)
エルには嫌われてると思っていたが、どうやらリオンの身を真剣に案じてくれているようだ。
それが信じられなくて、思わぬところで人の温かさに突然触れたことに驚いて、同時になんだかじわじわと嬉しくて――気が付くとリオンの目からは涙が溢れていた。
ぽろぽろと涙を流し始めたリオンを見て、エルがぎょっとしたように目を見開く。
「なっ……なんで泣くんですか!? 辞めてくださいよ! 俺が虐めてるみたいじゃないですか!」
「ごめん……。まさかエルが僕のこと……心配してくれるだなんて思わなかったから……」
あまりにも情緒不安定で、自分でもこれはないなぁと思う。だけど涙も嗚咽も止まらなかった。堰を切ったように次から次へと涙があふれ出してくる。
エルはしばらく居心地が悪そうに身じろいでいたが、やがてそっとリオンの隣に腰を下ろした。
「あの……何かあったんですか」
ぼそっと不愛想な声でエルが聞いてくる。
「話したくないのなら聞きませんけど。でも話したいのなら……聞いてあげなくもないです」
「え……?」
リオンは顔を上げた。エルはぶすっとした顔で地面を見つめている。
「俺だって、あなたには悪いことしたなって一応思ってるんですよ。薬盛ってのはさすがにやりすぎたって反省してます。それにずっと態度も悪かったし、今まで結構酷いことも言ったし……。だから、その、罪滅ぼしっていうわけじゃないですけど……別に話、聞いてもいいですよ」
「エル……」
リオンは驚いてエルの顔をまじまじと見てしまった。
目の前の青年は本当にエルなのだろうか。こんなふうに優しい言葉を掛けてくれたり歩み寄ってくれるだなんて信じられない。
リオンが驚愕の思いで横顔を見つめていると、エルが急に苛立ったように大声を出した。
「あ~もう! 話すのか話さないのか! どっちなんですか!」
「えっ、あっ、話します……」
勢いに釣られてそう言ってしまい、すぐにどうしようかと悩んだ。
「ええと……」
リオンは涙を拭い、言葉を探す。
エルは出会ったときからリオンに敵対心を持っていた。冷たい言葉をぶつけられたのも一度や二度ではない。それがどうしてこんな成り行きになっているのだろう。
自分でもわからなかったが、隣に座るエルからはリオンを気遣うような空気は確かに感じる。それに今までのことも謝ってもらったし……いや、謝られてないような気もするけど、とにかく誰かに話を聞いてもらえるのはありがたいことに思えた。
それにこのまま一人で考え続けていたら、気が狂ってしまいそうで怖かったという気持ちもある。
リオンは(どこまでどう話せばいいのかな……)と迷いながらも口を開いた。
「……あの……実は好きな人に振られたんだ」
「クレイド隊長に?」
ぼかして言ったつもりが、図星を衝かれて驚いてしまった。
「な、なんでクレイドだってわかったの?」
「はあ? そんなのとっくに気が付いてましたよ」
「え……嘘でしょう……」
リオンは少なからずショックを受けたが、そんなことは全く気にせずエルは話を進める。
「それで? 告白して振られたんですか?」
「えっ……ああ……うん。『リオン様の気持ちを受け入れることは出来ない』ってはっきり言われた……」
エルはふうん、と鼻を鳴らした。
「きっぱり言って貰えて良かったじゃないですか。振られてしばらくは辛いかもしれませんが、次に行きましょう、次」
「次に……行くの?」
「ええ」
エルは当然とばかりに頷く。
「だって振られたんでしょう? 諦めて次に行くしかないですよ。というか大人しく陛下の番になってくださいよ」
「え……っ?」
未だにそんなことを言われるとは思っていなかったので、驚いてしまった。エルはまだ諦めていなかったのか。
「エルって……オースティンのこと恨んでないの?」
あの晩餐の夜、エルはオースティンに強い口調で叱責されていた。それに今のエルの格好を見るに、王宮の仕事からは外されて下働きのような仕事をさせられているのだろう。それなのに、エルはオースティンに対して悪い感情を全く持っていないのだろうか。
いくら慕っていると言っても、主にこんな扱いをされたら不満くらいは持つのが普通だろう。リオンはそう思ったが、エルはリオンの言葉に心底驚いた顔をしている。
「そんなわけないでしょう! なんで俺が陛下を恨むんです? 陛下は俺の恩人なのに」
「恩人?」
リオンが聞き返すと、エルはそっと目を伏せた。少しのあいだ黙り込む。
「……俺、実はスラム街の生まれなんですよ」
「スラム街?」
「ああ……リオン様はわからないですよね。スラム街ってのは、貧乏な人間が住んでるごちゃごちゃした汚い所ですよ」
「そう、なんだ……」
目の前のエルと貧乏という言葉が結びつかなかったが、エルの暗い顔を見るに、あまりいい記憶ではないことは理解出来た。
「ほんとにクソみたいなところでしたよ……生まれたころから貧乏で、母親は病気で死んでしまって。最悪なことに借金もあったから、借金取りにぼこぼこにされて売られそうになって。でもそんなときに――陛下が助けてくれた……ぼろぼろの俺を拾ってくれたんです」
エルの表情がすうっと変わったのがわかった。闇を覗いているような暗い瞳に、ふっと柔らかく明るい光が混じる。リオンにはそれがどんな種類の感情だかすぐに分かった。恋情だ。恋情というよりは愛に近い大きな気持ちだ。
「……エルはオースティンのことを愛しているんだね」
「え?」
エルが驚いたようにこちらを向く。その顔は薔薇の花のように真っ赤になっていた。動揺したように視線があちこちに彷徨っている。
「な、なんで……」
「わかるよ。顔に全部出てる」
「えっ」
思えば最初から、エルは心の裡が全部表情に出ていた。リオンをよく思っていないこともすぐわかったし、不機嫌さは背中にさえ表れていた。とても正直な人なのだ。
エルは焦るようにぱくぱくと口が開いたり開いたりしていたが、急にふっと肩から力を抜く。その顔には悲しみと切なさが浮かんでいた。
「愛しているなんて恐れ多いですよ……。俺にとって陛下は、神様みたいなものだから」
『神様みたいなもの』
その言葉にリオンははっと胸を衝かれた。
よくわかる気がした。自分にとってクレイドはそんな存在だったから。
「俺は陛下のためならなんでも出来るんです。あの人が幸せになってくれるのならなんでもいいんです。だから……」
エルは泣きそうな目でリオンを見た。そして静かに頭を下げる。
「お願いします、陛下の番になってくれませんか? 陛下には……この国にはあなたが必要なんだ。俺じゃ駄目なんだよ。リオン様じゃないと――……」
リオンは言葉が出なかった。こんなに痛々しい顔で、それでも愛する人のために必死に言葉を紡ぐエルを見ていると、わけのわからない感情が込み上げてくる。
この感情はなんと呼ぶのだろう。憐憫というのだろうか、切なさと呼べばいいのか。胸が共鳴するように軋んで、痛くて痛くて仕方がない。
「どうしてエルはそんなふうに思えるの?」
気が付くとリオンはそう漏らしていた。エルが驚いたように目を瞬く。
「エルの献身も愛も――オースティンには届かなかったのでしょう? 確かにエルがしたことは悪いことだけど全部オースティンのためだった。でもオースティンはエルを側から追い出した。話も聞かなかったじゃないか。それなのにどうしてエルはまだ、そんなことが言えるの?」
エルは何度も瞬きをしていたが、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「……確かに俺の愛は陛下に届かない。だけどその愛はなくなるわけじゃないでしょう。どっかに少しは残るでしょう? それが少しでも陛下の役に立つなら――俺はそれで満足なんです」
「エル……」
どうしてこんなにエルは強いのだろう。どうしてこんなに大きな愛が持てるのだろう。
それに比べて自分は弱くて迷ってばかりだ。クレイドに自分の愛が届かないという理由で子供のように泣いて喚いて逃げ出した。情けなく不甲斐ない気持ちで、リオンはぐっと唇を噛みしめて俯いた。
エルはそんなリオンをしばらく見つめていたが、急に「さて」と言って立ち上がった。
「私はそろそろ仕事に戻りますので。リオン様も戻った方がいいんじゃないですか」
「……うん」
「あれ? そういえば護衛の兵士はどうしたんですか?」
言われて今さらながらに思い出した。
護衛の兵……? そう言えば――。
「たぶん巻いてきちゃったと思う……」
えっとエルが顔を顰めた。
「それはちょっとまずいですね。みんな死にもの狂いで探しているかと」
「そっか……そうだよね」
自分はこの国で唯一のブルーメだ。そのブルーメが消えたとなったら、きっと大騒ぎだろう。護衛の兵もリオンを探しているだろうが、クレイドはもっと必死になって探しているはずだ。
(クレイドに会いたくないな……)
だけどこれ以上周りに迷惑をかけるわけにはいかない。クレイドの前で普通に振る舞えるかは自信がないが、会わないわけにはいかないだろう。
「とりあえず王宮に戻りましょう。私が案内します」
「お願いします……」
エルの先導で入り組んだ生垣の中庭を出る。しかし王宮へ続く回廊に近づいたときだ。
「あ……」
エルが急に足を止めた。目を見開いて固まっている。
「エル? どうしたの?」
エルの視線の先を見て、リオンもまた固まった。
そこにいたのはクレイドとオースティンだった。
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