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-律人-ビルマの5日間④

「ところで——今弾いていた曲はなんて言うんだ?」 「アヴェ・マリア」 「あ……アベ……?」 「聖母マリアに祈りを捧げる曲です」 「聖母マリアというと、キリスト教の……?」 「ええ。ですがシューベルト作曲のこのアヴェ・マリアは宗教曲ではなくドイツリートと呼ばれる歌曲の部類です。 だからどの国、どの信仰を持つ人であっても、純粋な気持ちで楽しめる音楽なんです」 青年はそう言って微笑むと、バイオリンをケースの中にしまった。 「!……もう演奏しないのか?」 「そろそろ戻らないと。 それに——ここで演奏すると人の耳に届くことが分かったので、もうここでは演奏できません」 「そんな!!」 律人は思わず青年に歩み寄った。 「頼む。さっきの曲をまた聴かせてくれ。 今日じゃなくてもいいから。 さっきの——アヴェ・マリア……良かった。 真剣に音楽を聴いたことなんか無かったけれど、真剣に聴きたくなるほど、アンタの演奏が良かったんだ」 すると青年は唇の端を上げて答えた。 「それじゃあ、明日の晩も森の中でバイオリンを奏でましょう。 今日よりももっと奥深い所で。 もしあなたが音を辿ることができたら——好きに聴いてください」 宿舎に戻ってきた律人が翌朝目を覚ますと、隣の布団で寝ている兵士・高田が話しかけてきた。 「お前、昨日夜遅くまでどこを出歩いていたんだ?」 「うん?……ああ、少し森を散歩していた」 青年がバイオリンを演奏していたことを隠すため、律人は適当にそう濁した。 「はぁ……?ただでさえ俺ら空腹と戦ってんのに、積極的に身体を動かしてどうするんだよ」 「少しは動かしておかないと、いざという時に身体が言うことをきかないかもしれん」 「……ま、いいけどよ。 夜の点呼、お前の代わりに返事をしてやったんだから感謝しろよな」 「そうか、感謝する。 ——ついでに今晩も点呼を代わってもらえないか?」 「はぁー!?……報酬はあるんだろうな」 「今日支給される食糧、全部お前にやるよ」 「いいのか!?お前、ぶっ倒れるんじゃないか」 「その時はその時だ。飢えずとも、いずれは敵の銃弾か病にやられて死ぬんだから」 「……まあ、な。どうせ俺らが国に帰れる日なんざ来ねえだろうけどよ。 ——にしても一日分の食糧を渡してまで散歩がしたいなんて、変わってるなあ……」 昨日のバイオリンの演奏を聴いてから、律人の価値観は揺らいでいた。 それまでは一日の中で支給されるわずかな食糧だけが唯一の楽しみだった。 けれど音楽を聴いている間は飢えを忘れ、命が脅かされている恐怖も、祖国に帰れない寂しさもすべて消し飛んでいた。 演奏が終わった後も頭の中で旋律がリフレインし、その間中、どこか心が満ちていたのだ。 食事がもたらす幸福は胃を満たしている間だけだが、音楽はそうではないように思えた律人は、仲間の兵に食糧を渡すことに抵抗を感じなかった。

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