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-律人-ビルマの5日間⑤
その晩、再び森の中へ入って行った律人。
僅かな音も聞き漏らさないよう、注意深く耳を澄ませる。
今までも嫌になるほど木々に囲まれて過ごしていたが、耳に意識を集中させている今は、これまで聞こえなかった様々な音が入ってきた。
風で葉が擦れる音。
どこかで鳴いている小動物の声。
遠くに流れる川のせせらぎ。
そんな沢山の音が耳を抜けていくなか、鼓膜を振動させる音を一つ見つけた。
——聞こえる。バイオリンの音だ!
律人は音の振動を頼りに進んで行った。
自分の足音で消えてしまわないよう、注意深く歩きながら。
するとようやく開けた場所まで辿り着き、昨日の青年の姿を探し当てることができた。
青年は律人と視線を交わすと、軽く微笑んだあと、そのまま演奏を続けた。
柔らかな音色がその一帯の空気を優しく包んでいる。
この空間だけが幸福で満たされているような——
気付くと律人の片目から涙がこぼれ落ちていた。
アヴェ・マリアの演奏を終えた青年は、胡座をかいて座っていた律人のもとへ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「涙が……」
そう指摘されて初めて、律人は自分が泣いていたことに気付かされた。
「なんで——」
律人が慌てて涙を拭うと、青年は律人の隣に座り込んだ。
「何か悲しいことがあったわけではないのですか?」
「違う……。いや、悲しいと言えば、ここへ来てからのすべてに絶望してはいるけどな。
『これ』は、そういうんじゃない。
アンタの演奏を聴いていたら、勝手に流れてきたんだ」
すると青年は、少しの間の後、ゆっくりと口を開いた。
「僕もこの曲を弾いていると、時々涙が出てくることがあります」
「そうなのか?」
「そうなんです」
理由は話してくれないのか。
律人は青年の返しに少し脱力しつつも「そういえば」と話題を振った。
「アンタの名前、まだ聞いてなかったな。
——俺は春木律人」
「秋庭弓弦です」
「秋庭か。よろしくな」
「こちらこそ」
そこで一度会話が途絶える。
演奏を聴いている間は黙っていても居心地が良かったのに、音楽のない空間で互いに無言になるのはどうも居心地が悪い。
そう感じた律人は、とりあえず自己紹介をすることにした。
「俺はごく普通の家に育った次男坊で、学校を出てからは家の畑を手伝ったり、工場に勤めたりする日々を送っていた。
ここへ来る少し前に嫁さんを貰ったんだが、まだ子どもも作る前に招集を受けて——
実家に嫁さんを残して単身ビルマにやって来たというわけだ」
すると青年——弓弦も、自分の生い立ちを話してくれた。
「僕の方は音楽一家に生まれました。
生まれた時から、常に音楽が身近にある環境の中で育ちました。
父、母、姉の皆が楽器を得意としていて——
軍楽隊には、父から強く薦められて入りました」
「音楽一家、なるほどな」
律人は頷きながら言った。
「御父上は軍楽隊には入っていないのか?」
「ええ、父は身体があまり丈夫な方ではないので軍の暮らしは向かない、と。
けれど父は、僕が音楽ばかりやっていては男子として頼りないからと軍校に入れました。
きっと自分の劣等感の裏返しで、息子には文武両道でいて欲しかったのでしょうね。
戸山学校では演奏だけでなく、馬術や武器の扱い方も学びました」
「そうか……。音楽という芸があるだけで充分だと思ってしまうけどな。
御父上がわざわざ軍校に入れたために、息子はこんな僻地まで赴く羽目になったわけだろう?」
「でも、結果的に軍楽隊という仕事を得られたことは幸運でした。
音楽だけで食べていくのは大変ですからね。
父と母はそれぞれ、良家のご令嬢やご令息に楽器を教える仕事を持っていたし、姉は音楽の才能が抜きん出ていたから演奏家として稼ぐことが出来、後援してくれる資産家も付いていました。
対して僕は、演奏技術だけで生計を立てられるような腕は持っていなかったもので」
眉尻を下げながら卑下する弓弦に、律人は思わず声を大きくした。
「そんなことはない!!
俺はアンタの演奏にとても心を打たれた」
「それは作品の恩恵ですよ。
アヴェ・マリアは誰しも魅了するような素晴らしい曲ですから」
「いやっ……、それもあるかもしれないが——アンタの演奏も見事だった」
律人は後頭部をくしゃりと掻いた。
「……って、音楽に造詣のない俺が言ったって、なんの信憑性もないかもしれんが。
少なくとも俺は、アンタの演奏を聴いていると心が軽くなるような、華やぐような、そんな気持ちになれたんだよ。
——だから今日もここを探し当てて来たわけだ」
律人が腕を組んでそう言うと、弓弦はくすりと笑った。
「ありがとう。僕の音楽であなたの心を少しでも救えたのならば、音楽家として本望です」
「なあ、明日もここでバイオリンを弾いてくれるか?
今朝上官の話を耳にしたんだが、軍楽隊はもう暫くビルマに滞在するんだよな?」
律人が訊ねると、弓弦はにっこりと笑みを浮かべた。
「そんなに気に入ってくれたなら——明日もこの場所で」
その翌朝——
「捕らえたぞ!!」
朝早くにどこかから叫び声が聞こえ、律人は目を覚ました。
「誰か、縄をもってこい!尋問してやる」
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