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-律人-ビルマの5日間⑧
「今朝ぶりですね」
今夜もまたバイオリンの音を辿って行くと、弓弦が律人に気づいて挨拶をしてきた。
「今日は遅い時間なんですね」
「ああ、点呼が終わってから抜け出して来た。——問題はない」
大丈夫なのか、と聞かれる前に、律人は言葉尻を足した。
いつものようにアヴェ・マリアの演奏を終えた後、弓弦はバイオリンを手に腰を下ろした。
「まさか異国の地で、三日間も同じ人の前で演奏することになるとは思わなかった」
「俺も、こんな劣悪な環境に居ながら、まるであの世に行ったような気持ちになれるとは思ってもみなかった。
——日本にいた頃は音楽なんてものには一切関心が湧かなかったのに……不思議だよな」
律人も座りながら話す。
亜熱帯の森は夜でも底冷えすることなく、地面はほんのりと温かかった。
「日本にいた頃の春木さんは、何に関心を持っていましたか?」
バイオリンをケースにしまい、弓弦は興味深げに視線を向けて来た。
「そうだな……。
俺の家は小さな畑を持っていたから、兄弟で協力して畑仕事に精を出す日々だった。
工場で働いていたのも日銭を稼ぐためだし、
特にこれといって打ち込んだ勉学も趣味もなし——要はつまらない人間だよ」
「そういえば次男坊だと言っていましたね。
家族はご両親とお兄様と、それから奥様で全員ですか?」
「そうだ。まあ、嫁さんを迎えたのは召集がかかる直前だったから、まだ家族という実感も湧かない頃だったが」
「なるほど。新婚だというのに、それは辛いですね」
弓弦が心から同情する表情を見せると、律人は黙っているべきか悩んでいたことが自然と口をついて出た。
「——実は、少し前に日本から知らせが入った。
その嫁さんが、俺の兄と再婚したと」
沈黙が広がる。
弓弦は返す言葉に迷っているようだった。
気を遣わせてしまった、と感じた律人は、慌ててこう言った。
「っ、後家婚——戦死した夫の兄弟や従兄弟と再婚するというのは、このご時世よく聞く話だよな。
俺の場合、俺がまだ生きているうちからそんな知らせが届いたものだから驚いたが」
「……辛いですね」
弓弦がそう言うと、律人は苦笑いを浮かべながら続けた。
「いや、実はな。
元々俺は女に関心が無さすぎて、親が半ば強引に見合いを組んだんだよ。
嫁さんにはあまり気を掛けてやれなかった自覚があるから、早々に兄の方に乗り換えたのも納得がいっているんだ」
「それでも、奥様は君の元に嫁いできたわけでしょう?」
弓弦がなおも言うと、律人は後頭部をくしゃっと掻いた。
「……そも、俺は嫁さんを迎える資格なんて無かったんだ。
女に関心がないと言うのも、恋愛に疎かったという意味合いというより——
女のことを性の対象として見ていなかった、というべきか……」
ああ、なぜこんな話をしているのだろう。
律人は自分の口からどんどん本音が漏れ出して行く現象を、自身でコントロールできなくなっていた。
こんな個人的な話を、出会ってまだ三日の男に話すような道義はない。
けれど……今まで周囲に気安く話せるようなことでもなかったから尚のこと。
そして五日後にはここから居なくなる相手だからこそ、こんな風に心のうちを曝け出せるのかもしれないな。
「……嫁さんを迎えて、初夜に——勃たなかったんだ。
家のためにも子を作りたいと言う気持ちは俺も持っていたし、嫁さんもそれを望んでいた。
——でも、どうにもならなくてな。
それで……嫁さんとは気まずい関係が暫く続いて……
だから召集がかかった時、どこか内心でほっとしている自分がいた。
嫁さんの方も、俺がほぼ生きて帰れないであろう異国での戦場に送り出されると聞いて、せいせいしたことと思う」
「そんなこと……!」
弓弦が僅かに声を大きくした。
「奥様も……ご家族も、あなたが生きて帰ってくるのを心待ちにしていると思いますよ」
「どうかな。
——俺が死んだという知らせを待たずして再婚する程度には、心待ちにしてくれているかもしれんな」
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